セルビア王即位と譲位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 00:32 UTC 版)
「ステファン・ドラグティン」の記事における「セルビア王即位と譲位まで」の解説
セルビア王ステファン・ウロシュ1世の長子として生まれ、アンジュー家出身の王女イェレナ・アンジューイスカー(英語版)を母に持つ。1268年頃に、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘であるカタリン(英語版)を妻に迎えた。 セルビア内の親ハンガリー派の指導者的存在であり、そのために父ウロシュ1世と対立した。1276年にハンガリー王国の支援を受けて反乱を起こし、ガツコでの戦いの後にセルビア王位を奪い取った。即位後、ビザンツ帝国への攻撃を開始するが、成果は無かった。 1282年に狩猟中に脚を負傷し、健康を害する。協議の結果、セルビア王位にはドラグティンの弟のステファン・ウロシュ2世ミルティンが新たに就き、退位した彼はセルビア北部の領地を有することになった。子のヴラディスラフ(後のスレム王ステファン・ヴラディスラヴ2世(英語版))がハンガリー王家の王女と結婚した後、1284年にハンガリー王ラースロー4世よりベオグラード、マチュヴァを獲得した。晩年にボスニア王国のバン・ステファン・コトロマニッチ(英語版)と婚姻関係を築いた後にはウソラ(英語版)、トゥズラなどのボスニア方面の領土を獲得した。
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