セルビア統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 04:29 UTC 版)
「エレニ・パレオロギナ (セルビア専制公妃)」の記事における「セルビア統治」の解説
ラザルが在位わずか1年で死去したのち、大貴族のミハイロ・アンジェロヴィチが専制公国の評議会を率いることになり、事実上のセルビアの支配者(ヴォイヴォダ)となった。イェレナも、義兄スティエパン・ブランコヴィチと共に事実上の統治者の座に就いた。しかし1458年、オスマン帝国がスメデレヴォに侵攻した際、地元のセルビア人反乱勢力がアンジェロヴィチを捕らえた。イェレナは自身の地位を固めるべくボスニア王スティエパン・トマシュと同盟しようと考え、1459年4月1日にその長男スティエパン・トマシェヴィチのもとに長女エレニ(マリアと改名)を嫁がせた。 1459年6月20日、オスマン帝国軍の総攻撃によりスメデレヴォは陥落した。これによりセルビア専制公国は滅亡した。イェレナは脱出して、1462年4月にラグーサ(現ドゥブロヴニク)に来て一年を過ごした。この間に娘ミリツァの結婚を取りまとめている。1463年6月、イェレナはコルフ島に移った。彼女の故国であるモレアス専制公領も1460年に滅びており、母や兄弟もコルフ島に亡命していた。最終的にイェレナはレフカダ島に身を落ち着けて修道女となり、ヒポモナと名乗った。1473年11月7日、同地で死去。
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