セルビア専制公妃として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/10 04:55 UTC 版)
「マリア・ブランコヴィチ (ボスニア王妃)」の記事における「セルビア専制公妃として」の解説
スティエパン・トマシェヴィチのセルビア統治は極めて短期間に終わった。オスマン帝国のスルターンのメフメト2世は、スティエパンの彼の即位にからむセルビアとボスニアの協定をオスマン帝国の宗主権の侵害とみなした。1459年6月20日、オスマン帝国は抵抗を受けることなくスメデレヴォを制圧し、残存していたセルビア領全土を併合した。スティエパンとマリアはボスニアへ逃れ、ヤイツェにあった父の宮廷に身を寄せた。この時、マリアはブランコヴィチ家の家宝であったルカの聖遺物を持参している。1461年夏にスティエパン・トマシュ王が死去すると、マリアの夫スティエパン・トマシェヴィチがボスニア王を継承することになった。マリアはボスニア王妃となり、前王の妃カタリナ・コサチャ=コトロマニッチは王太后として宮廷から身を引いたと考えられている。
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