セルビア戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 03:01 UTC 版)
詳細は「ブレガルニツァ川の戦い(英語版)」および「カリマンツィの戦い(英語版)」を参照 ブルガリア第4軍はセルビア領マケドニアへの侵攻において最も重要な位置についていた。戦闘は1913年6月29/30日にブルガリア第4軍とセルビア第1と第3軍の間で開始、最初はズレトフスカ川(マケドニア語版)沿いで戦われたがブルガリア軍が撤退した後はブレガルニツァ川沿いで戦われた。ブルガリア軍内部の混乱により7月1日から3日にかけて大損害を被り、さらにセルビア軍が戦闘もなしにブルガリア第4軍の第7師団を捕虜にした。8日にはブルガリア軍の大敗が明らかになった。 戦場の北部ではブルガリア軍がセルビア国境のピロトへの進撃を開始、セルビア軍部はピロトとニシュを守備するセルビア第2軍に援軍を送らなければならなかった。これによりブルガリア軍は7月18日のカリマンツィの戦い(英語版)でセルビア軍のマケドニアにおける攻勢を停止させることができた。 1913年7月13日、ミハイル・サヴォフ(英語版)将軍はブルガリア第4と第5軍の指揮を執った。ブルガリア軍はマケドニア北東部のブレガルニツァ川(英語版)にあるカリマンツィ(英語版)村周辺で強固な陣地を築いた。7月18日、セルビア第3軍が攻撃を開始、ブルガリア軍の陣地に接近した。ブルガリア軍は持ちこたえ、大砲でセルビア軍の攻撃を撃退した。セルビア軍がブルガリア軍の守備を突破した場合、ブルガリア第2軍の破滅を意味する可能性があり、これによりブルガリアはマケドニアから完全に追い出される危険があった。しかし、ブルガリア軍が守備に成功、さらに第1と第3軍が北部で進軍に成功したことで、セルビア軍はブルガリア西部に侵攻できなかった。これはブルガリア軍の士気を上げたが、南部のギリシャ軍との戦況がいよいよ致命的になってきた。
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