第一世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 10:04 UTC 版)
「マツーシュカ・シルベステル」の記事における「第一世界大戦まで」の解説
1892年、ハンガリー王国カンタビル(ハンガリー語版)にて、ローマ・カトリックの信者であった靴職人の父マツーシュカ・アンタル(Matuska Antal)と母ネーメト・アンナ(Németh Anna)の子として生を受ける。シルベステルが10歳の頃に父アンタルが死去し、彼の助手だったクミベス・シャーンドル(Kőmíves Sándorhoz)がアンナと再婚する。クミベスはアンナの希望に従い、息子に聖職者としての教育を受けさせようと考えていたが、シルベステル自身は靴職人の技術に興味を持ち、工房にも頻繁に出入りしていた。1903年秋、カロチャ・イエズス会ギムナジウム(kalocsai jezsuita gimnázium)のI/b.クラスに進学したものの、後に成績不良からサバトカ・ギムナジウム(szabadkai gimnázium)に移った。ここで彼はカントルの教師になることを決心し、カロチャ大司教教員学校(kalocsai érseki tanítóképző)に進学した。卒業後は3ヶ所からの指名を受け、最終的にプシュポカトバン(ハンガリー語版)での勤務を選んだ。 1913年10月、マツーシュカは陸軍に志願入隊し、サバトカに本部を置く第6歩兵連隊に配属された。その後ソンボルに移り、第一次世界大戦勃発後は上等兵(Őrvezető)としてセルビア戦線(英語版)に派遣された。彼は負傷しつつも昇進を重ね、1914年11月末から12月初め頃、サバトカの病院に入院している最中に候補生軍曹(hadapródőrmester)へと昇進した。退院後は准尉(zászlós)となり、機関銃射手として訓練を受けた。1915年後半、ロシア戦線に派遣される。ウクライナのトポラウツ(Toporoutz)およびラランツェイ(Rarancei)方面では機関銃班の指揮を執った。その後、ペーチに本部を置く第19歩兵連隊に移り、トランシルヴァニア戦線ではトラコーマを患った中隊長の後任として少尉(hadnagy)に昇進した。農業監督官などの勤務を経て、中尉(főhadnagy)として終戦を迎えた。彼は軍人として戦功章(ハンガリー語版)銀章および銅章などを受章したが、後にこれらの勲章を競売にかけている。
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