ギリシャ軍の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 03:01 UTC 版)
「第二次バルカン戦争」の記事における「ギリシャ軍の攻勢」の解説
セルビア戦線は膠着していた。国王コンスタンティノス1世は対峙していたブルガリア軍が撃破されたのを見て、ブルガリア領にさらに深く進軍して、首都ソフィアを占領するよう命じた。これは決定的な勝利を得るためであったが、首相エレフテリオス・ヴェニゼロスはセルビア軍が戦争の目的を達成したことで戦闘に消極的になり、残りの戦闘の重圧をギリシャ軍に被せようとしたことに気付き、国王の決定に反対したが結局押し切られた。クレスネンスコ峡谷の戦い(英語版)ではギリシャ軍がセルビア戦線から駆けつけたブルガリア第2と第4軍に奇襲され、守備陣地を築いたが、7月21日にはギリシャ軍が人数でブルガリア軍に劣り、しかもブルガリア軍が反撃に転じた。ブルガリア軍の参謀本部はカンナエの戦いのようにギリシャ軍を包囲しようとしてその両翼に圧力をかけた。しかし激戦の結果ギリシャ軍はクレスネンスコ峡谷を突破して7月26日にシミトリを占領、27から28日にかけての夜にはブルガリア軍がソフィアから76キロメートル南のゴルナ・ジュマヤにまで押された。一方、ギリシャ軍は西トラキアへの進軍を継続、7月26日にクサンティに、その翌日にコモティニに入城した。28日、ブルガリア軍はギリシャ軍に強力に押され、ゴルナ・ジュマヤの放棄を余儀なくされた。 ギリシャ軍は疲労していて兵站上の問題にも直面したが、頑強に抵抗し、局地戦での反撃も行った。7月20日、ブルガリア軍はギリシャ軍の両翼からの反撃を撃退する必要があったために攻撃の手を緩めた。東側ではギリシャ軍がプレデラ山道を通ってメホミヤへ反攻しようとしたが、ブルガリア軍により山道の東側で止められ膠着した。西側では何とかセルビア軍と合流すべくツァレヴォ・セロ(英語版)への攻勢が始まったが、結局ギリシャ軍が自軍の陣地を保持したに留まった。
※この「ギリシャ軍の攻勢」の解説は、「第二次バルカン戦争」の解説の一部です。
「ギリシャ軍の攻勢」を含む「第二次バルカン戦争」の記事については、「第二次バルカン戦争」の概要を参照ください。
- ギリシャ軍の攻勢のページへのリンク