ギリシャ軍のアナトリア侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:01 UTC 版)
「希土戦争 (1919年-1922年)」の記事における「ギリシャ軍のアナトリア侵攻」の解説
アンカラに司令部を置くオスマン第20軍団の司令官アリ・フアド・パシャは、スィワス会議の後、非正規部隊が主体の国民軍総司令官を兼任し、1920年6月25日、新たに編成された西部戦線の司令官に任命された。西部戦線は、10月下旬から11月上旬にかけて行われたゲディズを巡る戦闘(英語版)で大きな損害を被った。このため、11月8日、大国民会議は、それまでの国民軍や遊撃軍などの非正規部隊の代わりに常備軍を設立する決定を下し、、旧西部戦線は、イスメト・ベイ の指揮する西部戦線とレフェト・ベイの指揮する南部戦線とに二分されて再編された。これに伴い、アリ・フアドは司令官を更迭され、第一次世界大戦末期にロシア革命で誕生したソビエト連邦(旧ロシア帝国)の首都モスクワの駐在大使に転出した。
※この「ギリシャ軍のアナトリア侵攻」の解説は、「希土戦争 (1919年-1922年)」の解説の一部です。
「ギリシャ軍のアナトリア侵攻」を含む「希土戦争 (1919年-1922年)」の記事については、「希土戦争 (1919年-1922年)」の概要を参照ください。
- ギリシャ軍のアナトリア侵攻のページへのリンク