セルビア専制公として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 12:01 UTC 版)
「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の記事における「セルビア専制公として」の解説
スティエパン・トマシェヴィチは叔父ラディヴォイと共に遅滞なくセルビアへ向かった。途中でボスニア王族の住むボボヴァチをオスマン帝国軍に襲撃され捕虜になりかけたが、辛くも逃げおおせた。1459年の受難週、スティエパン・トマシェヴィチは正教のセルビア専制公国の首都スメデレヴォに到着し、3月21日にセルビア専制公として戴冠した。ハンガリーからは、スティエパン・トマシェヴィチが問題なくスメデレヴォ要塞を手中に収められるよう取り計らうため、摂政スィラージ・ミハーイ率いる軍勢が到着した。 スティエパン・トマシェヴィチとイェレナ・ブランコヴィチの結婚式は4月1日、イースター後最初の日曜日に執り行われた。おそらくカトリックの儀式が行われたのち、イェレナはマリアと改名した。本来セルビア専制公の位はビザンツ皇帝が与えるものであり世襲称号ではなかったが、マリア・ブランコヴィチの母エレニ・パレオロギナはすでに滅亡したビザンツ帝国の皇帝家の末裔であり、彼女が空位の皇帝に代わり専制公位を授ける権利があると信じていた可能性もある。婚礼から1週間足らずのうちに、スティエパン・トマシェヴィチは妻の叔父ステファン・ブランコヴィチをセルビアから追い出した。父トマシュ王はミラノ公に対し、息子が「協定と全ラシュカ(セルビア)人の意思によって」専制公の位を得たといって自慢した。しかしセルビア国内では、スティエパン・トマシェヴィチ体制はあまり人気がなかった。年代記者たちは、スティエパン・トマシェヴィチが妻の叔父に対してしたことが、教会分裂という難儀を引き起こしたのだと罵っている。 スティエパン・トマシェヴィチのセルビア支配は極めて短期間に終わった。ハンガリーと同様セルビアを従属国とみなしていたオスマン帝国のメフメト2世が、スティエパン・トマシェヴィチの即位をオスマン帝国に対する不当な権利侵害とみなしたのである。メフメト2世は6月にスメデレヴォ攻略を目指しセルビア遠征を実施した。オスマン軍はまともな抵抗を受けることなく進軍を続けた。ボスニアではトマシュ王がボスニア中部にあるオスマン支配下のホディディエド要塞を攻撃してオスマン帝国の注意を引き付け、息子を救おうとした。しかしスティエパン・トマシェヴィチはスメデレヴォ要塞でオスマン軍の攻撃を耐えきることはできないと判断し、6月20日に降伏した。その条件として、スティエパン・トマシェヴィチは供とともにスメデレヴォを出ることを許された。この後一年間のうちに、セルビアの全旧領がオスマン帝国に併合された。 スメデレヴォ陥落を聞いた教皇ピウス2世は、「ラシュカへの入り口」である当地がオスマン帝国の手に落ちたことを嘆いた。スティエパン・トマシェヴィチは自身や妻マリアの家族をつれてボスニアへ亡命し、父の宮廷に庇護を求めた。ハンガリー王マーチャーシュ1世は、スティエパン・トマシェヴィチ一家が「莫大な金」とひきかえにスメデレヴォ要塞をオスマン帝国に引き渡したといって非難し、ピウス2世も当初はこの言説を信用していた。しかしピウス2世自身が独自に調査した結果、スティエパン・トマシェヴィチが要塞を売り渡した事実はないという結論に至り、教皇はこの主張を取り下げた。オスマン帝国、ボスニア、セルビアいずれの史料にもスティエパン・トマシェヴィチが国を売ったと裏付ける史料は見つかっていないため、ハンガリー王の主張は無根拠な中傷だったとみられる。セルビア出身のイェニチェリであったコンスタンティン・ミハイロヴィチやビザンツ・ギリシアの学者ラオニコス・ハルココンディリスらもスティエパン・トマシェヴィチの潔白を主張し、彼の決断は純粋にオスマン軍の圧倒的な規模によるものであると考えている。また両者とも、スメデレヴォ内のセルビア人が街を出てメフメト2世のもとに赴き、街に入る鍵を手渡したと記録している。彼らはボスニア人による支配を嫌い、またオスマン帝国ならハンガリーよりも宗教的に寛容であろうと考えていたためであった。
※この「セルビア専制公として」の解説は、「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の解説の一部です。
「セルビア専制公として」を含む「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の記事については、「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の概要を参照ください。
- セルビア専制公としてのページへのリンク