緒戦、東ガリツィア方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:02 UTC 版)
「東部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「緒戦、東ガリツィア方面」の解説
詳細は「ロシアの東ガリツィア占領 (1914年–1915年)(ロシア語版、英語版)」を参照 対ロシア作戦のため使用されるオーストリア=ハンガリー帝国軍は8月20日おおむね動員を済ませ、オーストリア第3軍及びケーベス兵団を東方のロシア第3軍、第8軍にあてて主力はルブリン、ホルム方面から南下するロシア第5軍、第4軍に向かって前進させた。一方、ロシア軍主力の第3軍、第8軍は、リヴィウを目指して前進した。オーストリア、ロシア両軍の間で遭遇戦が発生したが、リヴィウ東方のオーストリア軍は優勢なロシア軍によって漸次西方に圧迫された。9月2日、オーストリア軍はついにガリツィア・ロドメリア王国(ガリツィア)の首府レンベルク(リヴィウ)を放棄した。これにより北方オーストリア軍は主力方面から逐次戦力を東方に転用しなければならない状況に陥る。オーストリア軍は広正面に分散し、いたるところで戦力が脆弱となって次第に西方に退却した。 こののち、セルビア戦線(英語版)から招致した2個軍団の到着を待って、オーストリア軍は9月8日リヴィウ方面で攻勢に出た。激戦となったがオーストリア軍はロシア軍に右翼を包囲され、9月10日サン河の線に向かって退却した。ロシア軍は各方面からこれを追撃するとともにヴィスワ川(ポーランド語: Wisła、ドイツ語: Weichsel ヴァイクセル)河畔に集中していた第9軍をもってサン川両岸地区を南下させ、オーストリア軍の左翼を突こうとした。このためオーストリア軍はサン川の線にも停止することができず、多大な損害を被ってプシェムィシル要塞に約5万の兵を残して退却した。 ロシア軍はこれを追撃して8月22日約5個軍団でプシェムィシル要塞を包囲し、さらに要塞南北の地域からサン川西方に進出した。この追撃の途中、ロシア軍はドイツ軍がポーランド方面に兵力を集結させているのを知り、同24日第4軍を北方イヴァンゴロド方面に転用した。
※この「緒戦、東ガリツィア方面」の解説は、「東部戦線 (第一次世界大戦)」の解説の一部です。
「緒戦、東ガリツィア方面」を含む「東部戦線 (第一次世界大戦)」の記事については、「東部戦線 (第一次世界大戦)」の概要を参照ください。
- 緒戦、東ガリツィア方面のページへのリンク