緒戦、東プロイセン方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:02 UTC 版)
「東部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「緒戦、東プロイセン方面」の解説
詳細は「ロシアの東プロイセン侵攻 (1914年)(ロシア語版、英語版)」を参照 ドイツ軍の考えていたシュリーフェン・プランはロシア軍の動員の遅さを前提としていたが、この予想に反して8月中旬にはロシア軍は動員を完了した。8月17日、ロシア西北正面軍の第1軍はスワルキー地方から独領東プロイセンに進攻し、グンビンネン付近の独軍陣地を攻撃。同第2軍は8月19日ナレウ河谷(英語版)から東プロイセンに進入し、ドイツ国境守備隊を駆逐しつつ前進していた。 グンビンネンの戦い(ドイツ語版、ロシア語版、英語版)の敗戦により新しくドイツ第8軍司令官となったヒンデンブルク大将はロシア第1軍、第2軍の不連携に乗じて各個撃破を計画した。すなわちロシア第1軍に対しては後備1個軍団及び騎兵1個師団のみをあてて防御し、グンビンネン付近にいた現役2個軍団を招致して主力をもってロシア第2軍を殲滅しようという案である。 ドイツ軍は2個軍団をもってタンネンベルク付近に陣地を構築し、グンビンネン付近から鉄道で移動した2個軍団を各1個軍団宛陣地の両翼に使用してロシア第2軍を包囲しようとした。ロシア第2軍は8月26日からタンネンベルク付近の陣地を攻撃していたがドイツ軍に包囲される。30日、ついに湖沼森林地域に追い詰められたロシア第2軍はほとんど殲滅された。 この間北方にいたロシア第1軍はアルレ湖畔に停止し、第2軍を救援するという積極的な行動を起こさなかった。ロシア第1軍がなぜ第2軍を助けなかったかについて、ソ連ゼンコウィチは「第1軍が第2軍に協力援助を与えなかった主要な原因は、正面軍司令部の誤った状況判断と時機を逸した命令部署に他ならない。そしてこれらは連絡と敵情偵察が不十分であった結果として起こったものである。」と述べている。 詳細は「タンネンベルクの戦い (1914年)」を参照 独ヒンデンブルク将軍はタンネンベルク勝利後、兵を北方を移動させ露第1軍を殲滅しようと決し第一次マズーリ湖攻勢を開始した。ドイツ軍は不意にロシア軍の左翼に出てこれを包囲しようとしたが、ロシア第1軍は第2軍と同じ失敗を恐れて自国内へと撤退した。
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