緒戦・台湾爆撃
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1937年12月1日、訓練を終えた中ソ連合航空隊のI-16戦闘機23機とSB爆撃機20機が南京飛行場に到着し、南京防衛戦で初めて戦闘に参加した。プロコフィエフの指揮する戦闘機隊は日本軍の爆撃機2機と戦闘機1機を撃墜したとされ、爆撃隊は長江の日本艦隊や日本軍飛行場を爆撃した。しかし南京へ日本軍が迫り、中ソ航空隊は9日に南京を離れた。この戦いでは、南京を失ったことやソ連側の士気が低かったことから、中ソ両国の要員が互いに責任を転嫁する場面がみられたとされる。その後、中ソ連合航空隊は武漢や南昌に基地を移し、防空戦闘や日本軍飛行場への爆撃を行った。 1938年2月から4月にかけては、河南省の洛陽・帰徳付近に展開するI-15bis戦闘機主力のソ連志願隊と、日本陸軍飛行第2大隊(九五式戦闘機)が交戦した。この時には中国空軍機は少数だったため、実質的には日本陸軍とソ連空軍による空戦となった。 4月上旬の台児荘の戦いでは、爆撃機隊が駅や橋を破壊して日本軍増援部隊の来援を阻止している。 1938年2月23日(ソ連赤軍の記念日)、フョードル・ポルィーニン(ロシア語版)大尉が指揮する中ソ混成のSB爆撃機隊(28機)は南昌基地を発進して台湾海峡を越え、台北の松山飛行場への爆撃を敢行した。松山飛行場は事変勃発以来、日本海軍爆撃機による渡洋爆撃の拠点であった。SB隊は奇襲攻撃を期するため、グライダー化した無音状態で高空から爆弾を投下した。日本軍の迎撃はなく、編隊は南昌へ帰投した。中国側の発表によれば、地上の日本機40機を破壊、航空燃料3年分のストックが焼却されたとしている。 日本海軍の発表では、飛行場に被害は無く少数の住民が犠牲になったとしている。
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