緒戦におけるマイソール軍の勝利とイギリスの敗北とは? わかりやすく解説

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緒戦におけるマイソール軍の勝利とイギリスの敗北

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 06:40 UTC 版)

第二次マイソール戦争」の記事における「緒戦におけるマイソール軍の勝利とイギリスの敗北」の解説

5月28日ハイダル・アリータミル地方へと出兵し、7月20日にの軍勢は山を越えてカルナータカ太守領土イギリス人は「カーナティック」と呼んだ)に侵攻したマイソール側の略奪騎兵団は略奪放火殺戮行いカーナティック全土恐怖陥った。 しかし、その破壊決し無差別的なものではなく東インド会社物資供給輸送困難にするように念入りに仕組まれていた。ハイダル・アリーその後陣に控えて部下主な町占領させ、兵員配備した一方会社側の軍隊一つマドラスもう一つ北サルカールグントゥールにあった総指揮官ヘクター・マンローは二軍団を合わせると8,000になるにもかかわらず、その軍隊合体遅らせるという、致命的な過ち犯したハイダル・アリーはこれを好機見て息子ティプー・スルターンに弱いほうのグントゥール軍勢攻撃させた。一方8月ハイダル・アリー率いマイソール軍はマドラス包囲したイギリス軍初めのほうはマイソール軍を撃退できたが、数の劣勢指揮官バイリエが優柔不断であったために戦線破られて、数百名が戦死したグントゥール戦い)。マンロー救援軍をつれてグントゥールについたときにはすでに遅く現地駐在軍は全滅しており、翌朝に彼は大砲弾薬食料などをその場捨ててグントゥールからマドラスへと逃げ帰った。 この緒戦における敗北に関してイギリスの歴史からはマンローとバイリエに悪口に近い非難浴びせたが、マンローのほうは少なくとも経験富んだ指揮官であった。だが、ハイダル・アリーのほうが明らかに幾度となく戦場駆け巡り、高度な指揮手腕発揮した過ぎず、それに太刀打ちできなかったのであるマンローマドラス包囲されたまま、同じく内陸部のヴァンデヴァッシュなどで包囲され友軍助けに行くこともできずにいた。イギリス事実上カーナティックを失うこととなり、その全土マイソール側の支配置かれていた。 ベンガルカルカッタにいたベンガル総督ウォーレン・ヘースティングズ事態重く見てカルカッタ理事会員アイル・クートをマドラス救援向かわせることにした。彼は癇癪もちであったが、ロバート・クライヴよりも有能で、経験富んでいるとされていた人物であった。 アイル・クートは出撃したものの、カーナティック全土マイソール側の支配下にあったため、牛馬荷車集めることができずに苦しんだ。彼はマドラス会社軍と合流したのち、いくつかの激し戦闘行い、ヴァンデヴァッシュを解放することに成功した。 だが、アイル・クートはハイダル・アリーの非常に巧妙な消耗作戦のため、物資補給悩まされ続け海岸線のセント・デーヴィッド要塞引き上げざるを得なかった。そののち、彼は海路からの十分な補給得てマイソール側の主戦力との会戦望みつつも、海岸線を南に前進した1781年7月1日、アイル・クート率いイギリス軍ハイダル・アリーマイソール軍はポルト・ノヴォ激突しイギリス軍激戦の末にマイソール側の大軍を破ることに成功したポルト・ノヴォの戦い)。 同年夏、ジョージ・マカートニーマドラス到着しその長官となると、彼はオランダ支配下にあるナーガパッティナム占領命じたオランダ軍マイソール軍の支援得て戦ったが、最終的にナーガパッティナムイギリス占領された(ナーガパッティナム包囲戦)。 1781年12月ティプー・スルターンイギリスからチットゥール奪った。これは彼の訓練され軍隊生み出した結果であったまた、ハイダル・アリー父子ケーララ地方のアラッカル王国やマーピラといったムスリム支持取り付け、のちにオランダ配下マラヤ兵やムラカ兵の軍勢合流したポルト・ノヴォの戦いののち、ハイダル・アリータンジャーヴール・マラーター王国にも攻め入り、その領土略奪破壊された。1782年2月8日ティプー・スルターンはその首都タンジャーヴール近郊アンナグディでイギリス軍破った(アンナグディの戦い)。 結局、その君主トゥラジャージー2世ハイダル・アリー忠誠を誓わざるを得なかった。タンジャーヴール国土は実に9割が破壊された。この襲撃は「ハイダラカラム(Hyderakalam)」という伝承語り継がれ、その復興19世紀になるまでままならなかったという。 同年夏、ボンベイイギリス勢力マイソール王国支配下にあるマラバール海岸を奪うため、増援軍を派遣したハイダル・アリーティプー・スルターン精鋭の軍を預け、この迎撃に向かわせた。

※この「緒戦におけるマイソール軍の勝利とイギリスの敗北」の解説は、「第二次マイソール戦争」の解説の一部です。
「緒戦におけるマイソール軍の勝利とイギリスの敗北」を含む「第二次マイソール戦争」の記事については、「第二次マイソール戦争」の概要を参照ください。

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