緒戦におけるマイソール軍の勝利とイギリスの敗北
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「第二次マイソール戦争」の記事における「緒戦におけるマイソール軍の勝利とイギリスの敗北」の解説
5月28日にハイダル・アリーはタミル地方へと出兵し、7月20日にの軍勢は山を越えてカルナータカ太守の領土(イギリス人は「カーナティック」と呼んだ)に侵攻した。マイソール側の略奪騎兵団は略奪、放火、殺戮を行い、カーナティック全土は恐怖に陥った。 しかし、その破壊は決して無差別的なものではなく、東インド会社に物資の供給と輸送を困難にするように念入りに仕組まれていた。ハイダル・アリーはその後陣に控えて、部下に主な町を占領させ、兵員を配備した。 一方、会社側の軍隊は一つはマドラス、もう一つは北サルカールのグントゥールにあった。総指揮官ヘクター・マンローは二軍団を合わせると8,000になるにもかかわらず、その軍隊の合体を遅らせるという、致命的な過ちを犯した。ハイダル・アリーはこれを好機と見て、息子のティプー・スルターンに弱いほうのグントゥールの軍勢を攻撃させた。一方、8月にハイダル・アリー率いるマイソール軍はマドラスを包囲した。 イギリス軍は初めのほうはマイソール軍を撃退できたが、数の劣勢と指揮官バイリエが優柔不断であったために戦線を破られて、数百名が戦死した(グントゥールの戦い)。マンローは救援軍をつれてグントゥールについたときにはすでに遅く、現地の駐在軍は全滅しており、翌朝に彼は大砲、弾薬、食料などをその場に捨てて、グントゥールからマドラスへと逃げ帰った。 この緒戦における敗北に関して、イギリスの歴史からはマンローとバイリエに悪口に近い非難を浴びせたが、マンローのほうは少なくとも経験に富んだ指揮官であった。だが、ハイダル・アリーのほうが明らかに幾度となく戦場を駆け巡り、高度な指揮手腕を発揮したに過ぎず、それに太刀打ちできなかったのである。 マンローはマドラスに包囲されたまま、同じく内陸部のヴァンデヴァッシュなどで包囲された友軍を助けに行くこともできずにいた。イギリスは事実上カーナティックを失うこととなり、その全土がマイソール側の支配に置かれていた。 ベンガルのカルカッタにいたベンガル総督ウォーレン・ヘースティングズは事態を重く見て、カルカッタの理事会員アイル・クートをマドラス救援に向かわせることにした。彼は癇癪もちであったが、ロバート・クライヴよりも有能で、経験に富んでいるとされていた人物であった。 アイル・クートは出撃したものの、カーナティック全土がマイソール側の支配下にあったため、牛馬や荷車を集めることができずに苦しんだ。彼はマドラスの会社軍と合流したのち、いくつかの激しい戦闘を行い、ヴァンデヴァッシュを解放することに成功した。 だが、アイル・クートはハイダル・アリーの非常に巧妙な消耗作戦のため、物資の補給に悩まされ続け、海岸線のセント・デーヴィッド要塞に引き上げざるを得なかった。そののち、彼は海路からの十分な補給を得て、マイソール側の主戦力との会戦を望みつつも、海岸線を南に前進した。 1781年7月1日、アイル・クート率いるイギリス軍とハイダル・アリーのマイソール軍はポルト・ノヴォで激突し、イギリス軍は激戦の末にマイソール側の大軍を破ることに成功した(ポルト・ノヴォの戦い)。 同年夏、ジョージ・マカートニーがマドラスに到着しその長官となると、彼はオランダの支配下にあるナーガパッティナムの占領を命じた。オランダ軍はマイソール軍の支援を得て戦ったが、最終的にナーガパッティナムはイギリスに占領された(ナーガパッティナム包囲戦)。 1781年12月、ティプー・スルターンはイギリスからチットゥールを奪った。これは彼の訓練された軍隊が生み出した結果であった。また、ハイダル・アリー父子はケーララ地方のアラッカル王国やマーピラといったムスリムの支持を取り付け、のちにオランダ配下のマラヤ兵やムラカ兵の軍勢と合流した。 ポルト・ノヴォの戦いののち、ハイダル・アリーはタンジャーヴール・マラーター王国にも攻め入り、その領土は略奪・破壊された。1782年2月8日、ティプー・スルターンはその首都タンジャーヴール近郊アンナグディでイギリス軍を破った(アンナグディの戦い)。 結局、その君主トゥラジャージー2世はハイダル・アリーに忠誠を誓わざるを得なかった。タンジャーヴールの国土は実に9割が破壊された。この襲撃は「ハイダラカラム(Hyderakalam)」という伝承で語り継がれ、その復興は19世紀になるまでままならなかったという。 同年夏、ボンベイのイギリス勢力はマイソール王国の支配下にあるマラバール海岸を奪うため、増援軍を派遣した。ハイダル・アリーはティプー・スルターンに精鋭の軍を預け、この迎撃に向かわせた。
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