ジョージ・マカートニーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 海外の政治家 > イギリスの政治家 > ジョージ・マカートニーの意味・解説 

マカートニー【George Macartney】

読み方:まかーとにー

[1737〜1806]英国の政治家・外交官英国最初使節として清国派遣され1793年乾隆(けんりゅう)帝に謁見、英清貿易拡大などを求めたが、成功しなかった。


ジョージ・マカートニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/24 15:11 UTC 版)

ジョージ・マカートニー

初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニー英語: George Macartney, 1st Earl Macartney, KB 1737年5月14日 - 1806年5月31日)は、イギリス外交官、植民地行政官。アイルランド王国アントリム州生まれのスコットランド人

経歴

ダブリントリニティカレッジを卒業後、外交官として勤務し始めた。1763年には七年戦争の講和会議に参加し、パリ条約交渉の記録を行っている。1764年にはロシアペテルブルク駐在公使を務める。以後、英領カリブ諸島植民地総督、マドラス総督(イギリス領インド)など植民地行政官を歴任した。

1769年にはアイルランド書記長英語版となり、1772年の辞職とともにナイトに叙された。1776年にはグレナダ総督となり、マカートニー男爵アイルランド貴族)に叙せられた。1768年にはアイルランド議会議員(1776年まで)、グレートブリテン議会英語版議員となり、1781年まで務めた。1792年にはマカートニー伯爵(アイルランド貴族)を受ける。

イギリスと中国の清朝との間で行われていた貿易は広州一港に限られていたため、1791年、マカートニーは前任のカスカートの病死で、貿易改善交渉のための全権大使に起用される。マカートニーはイギリス王ジョージ3世が派遣する、乾隆帝の80歳を祝う使節団として派遣され、1792年9月にスピットヘッドからライオン号で本国を出発し、翌年7月に清へ到達。

イギリスからでは初の使節ということで歓迎され、9月に熱河離宮で避暑滞在中の乾隆帝に謁見する。華夷秩序に基づく中華世界において、周辺諸国からの外交使節は「皇帝の徳」を慕っての朝貢使節と認識され、マカートニーは朝貢使節が皇帝に対して行う中国式の儀礼である三跪九叩頭の礼(3回跪き、9回頭を地に擦りつける)をするよう要求される。彼はこれを拒否するが、最終的には清側が譲歩する形で、イギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着いた。だが貿易改善交渉、条約締結は拒絶され、帰国した。英中貿易の全権大使は次代のウィリアム・アマーストに引き継がれた。

坂野正高訳注で『中国訪問使節日記』(平凡社東洋文庫、初版1975年)がある。

帰国後は、イタリアでの任務やケープ植民地総督を歴任する。1795年にはグレートブリテン貴族としてマカートニー男爵に叙せられた。1798年11月に健康を害し退職した。ミドルセックスチズウィック (Chiswick) で69歳で亡くなった。

その他

子孫の一人であるジェーン・マカートニー(Jane Macartney)は2008年5月現在イギリスの新聞『タイムズ』の北京支社社長の任にあり、四川大地震の際に多くの報道を行った。(南方週末(南方周末)中国語版2008年5月29日D28面より)

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジョージ・マカートニー」の関連用語

ジョージ・マカートニーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジョージ・マカートニーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジョージ・マカートニー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS