清滞在期間 1794年 - 1795年
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「イサーク・ティチング」の記事における「清滞在期間 1794年 - 1795年」の解説
1794年とは、オランダ共和国がフランス革命軍によって占領された年である。翌1795年1月、オランダ共和国は滅亡して、フランスの衛星国バタヴィア共和国が建国を宣言した。 オランダ人にとって危機的な時期、ティチングは乾隆帝の治世60年記念式典のため北京の宮殿に赴くオランダ大使に任命された。清国でのティチングの実質的な役割は外交大使であり、同時にオランダ東インド会社代表でもあった。 ティチングは広東から北京に至る厳しい冬の旅を敢行し、ヨーロッパ人がそれまで許されなかった内陸部の各地を目の当たりにすることができた。ティチング一行は新年の式典に間に合うように北京に到着した。前年に失敗に終わったジョージ・マカートニー伯爵を大使とするイギリス大使館とは異なり、ティチングはあらゆる努力を惜しまず、皇帝への三跪九叩頭の礼など複雑な宮殿作法に従った。ティチングら一行は稀に見る敬意を払われ紫禁城に入城を許され、その後円明園に入った。歓待は乾隆帝の宮殿で行われ、これは前年にマカートニーらイギリス使節団が拒絶されたこととは対照的であった。 ティチング代表団らの一員にはオランダ系アメリカ人アンドレアス・エベラルドゥス・ファン・ブラーム・ホックヘースト、フランス大使クレティアン・ルイ・ジョゼフ・ド・ギーニュがおり、デ・ギーニュが記した宮殿内での大使館員らの模様は、ヨーロッパとアメリカで出版された。 ティチング使節団の後、次世紀の阿片戦争終結までヨーロッパ諸国からの使節団が清国の宮殿に入ることはなかった。
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