清潔の励行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
菊栄は赴任早々、園内の不潔さと、子供たちの不健康さに驚愕した。服はぼろぼろで、肌は垢にまみれ、蕁麻疹のような吹き出物、さらに半数以上はトラコーマに羅漢しており、真っ赤に爛れた目から絶え間なく涙を流していた。明らかに結核とわかる子供もいた。菊栄は、医師であった樹庵譲りで、ある程度の医学の知識を持ち合わせていたため、これらの病状をいち早く見抜いたのである。しかも園内は非常に不潔で、ノミ、シラミ、ダニの巣も同然であった。 菊栄は赴任直後の3日間、食事の時間以外は、休むことなく雑巾がけに励んだ。当時、菊栄の他の職員は事務員と賄い婦のみであった。子供たちも次第に手伝い始め、やがて子供たち全員総出での大掃除となった。 子供たちに「清潔」を教えることから始めた菊栄は毎日、毎日、園を掃除し、夜は子供たち全員を順番に入浴させた。浴場が狭いため、10回ほどの入れ替えが必要だった。洗面、歯磨きの習慣も付けさせ、体操も励行した。 最も大変だったのは、衣類の洗濯であった。洗濯機もろくな洗剤もない時代、洗濯は灰汁の汁と洗濯板の手作業であった。何度洗っても洗濯物の山は減ることがなく、洗濯板の波状の段はすぐにつるつると化した。洗い上がった衣類は、年長の子供がリヤカーや天秤棒で鏡川へ運んで、すすぎを行った。子供が寝小便をすれば、布団は鍋で煮沸消毒して庭に干した。朝5時から繕い物を終える深夜1時まで、菊栄の仕事が途切れることはなかった。 菊栄が先頭に立って清潔を励行したことで、やがてトラコーマは一掃された。子供たちが通学していた小学校の教員たちは、日増しに変貌してゆく子供たちの姿に目を見張った。 結核に羅漢した子供は、当時は結核が不治の病気と恐れられていたことから、隔離されて孤独な生活を強いられていた。菊栄はその子供を自分の部屋に連れ込み、石塚左玄の推奨する食事療法を根気よく続けた。子供は9か月で全快し、後に郷里で独立することができた。博愛園近くに結核治療で知られている病院があり、そこの院長が「患者たちを十中八九治療できる」として、菊栄を看護婦長の役職に誘ったほどだった。 また菊栄は、園内の子供たちに一般家庭と同様に、体裁の整って皺ひとつ無い立派な服を着せたいとの一心で、洗濯物に大量に洗濯糊を付けることを好んだ。糊は食事の際に余った飯を用いた。こうして菊栄が洗濯糊で仕上げた服は、確かに皺一つない綺麗な仕上がりであったが、実際のところは糊の付けすぎで服が固くなって動きにくいとの声も多く、菊栄の実子も菊栄の糊好きには閉口していた。
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