フンザ・ナガル戦争
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「フランシス・ヤングハズバンド」の記事における「フンザ・ナガル戦争」の解説
詳細は「フンザ・ナガル戦役(英語版)」を参照 大尉に昇格した1889年には、フンザの侵略者がヤルカンドとインドをむすぶ交易路を荒らしていたラダック北部の辺境に、グルカ兵つきで送り込まれた。彼はヤルカンド川の渓谷で幕営し、前線からの電報を待つかたわら、「グレートゲーム」の好敵手であるロシアのブロニスラフ・グロンブチェフスキー(英語版)指揮官を晩餐に招いた。グロンブチェフスキーのキャンプに呼ばれることもあり、そのときは夕食をともにし、ウォッカとブランデーを酌み交わしながら、イギリスがインドやロシアに侵攻する可能性について論じた。ヤングハズバンドはグロンブチェフスキーの馬術の腕前に感銘を受け、グロンブチェフスキーはグルカ兵の錬度に感嘆した。この後、グロンブチェフスキーはチベット方面に赴き、ヤングハズバンドはカラコルム探検を続行した。 1890年には通訳のジョージ・マカートニーと新疆省(現新疆ウイグル自治区)に向かい、カシュガルで一冬を越した後、パミール高原経由でインドに帰還した。この道中、ワハーン回廊のボザイ・グンバズ(英語版)でロシア軍兵士からこの地に留まるよう脅迫される事件があり、翌1891年のフンザ=ナガル戦役(英語版)の引き金となった。 カシミール駐屯中、ヤングハズバンドはファッションデザイナーのエドワード・モリニューの依頼でKashmirを著した。モリニューが渓谷の挿絵を付したその著書で、彼はカシミールの自然と歴史に惜しみない称賛を送っている。 1890年には、中国側からカシミールに至った行程における地理学的観察の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた。 陸軍からの出向という形で、1890年にインド政務官に着任した。 イギリスとロシアの「グレートゲーム」は20世紀に入っても続いたが、ヤングハズバンドはスヴェン・ヘディン、オーレル・スタインなどの探検家に積極的に同行した。
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