セルビア王国とオスマン帝国の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 00:03 UTC 版)
「セルビア・モンテネグロの歴史」の記事における「セルビア王国とオスマン帝国の支配」の解説
これらの諸民族はテュルク系のブルガール人の支配下に入ったりしたが、10世紀には東ローマ帝国の支配下に入り正教会などビザンティン文化を受容した。 11世紀には独立の気運が高まり12世紀には独立。1217年にセルビア王国が建国され、14世紀までにはバルカン半島に広大な領土を確保し、隆盛を極めた。その一方ハンガリー王国やオスマン帝国の圧迫も受けるようになり、1389年のコソボの戦いに敗北すると、オスマン帝国の支配下に入った。 18世紀に入るとオスマン帝国の衰退にともないハプスブルク帝国が進出。両者の争奪の場となった。セルビアがオーストリアの支援を希望したが受け入られず、オスマン帝国とロシア帝国の間のキュチュク・カイナルジ条約によって、ロシアの保護下に置かれた。 19世紀にナポレオン戦争の混乱に乗じて、独立を企図するがロシアの支援が得られず失敗。だが、セルビア公オブレノビッチがオスマン帝国を破り、事実上の独立を勝ち得た。
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