1990年 - 1998年 : セルビア統治下のコソボとは? わかりやすく解説

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1990年 - 1998年 : セルビア統治下のコソボ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:49 UTC 版)

コソボ紛争」の記事における「1990年 - 1998年 : セルビア統治下のコソボ」の解説

詳細は「コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)」を参照 スロボダン・ミロシェヴィッチ1990年コソボヴォイヴォディナ自治権剥奪しミロシェヴィッチ支持者によって選ばれ新し地元指導者へ挿げ替えコソボ権限縮小プロセス大きく進めた。両自治州ユーゴスラビア6つ構成共和国同様にユーゴスラビア連邦大統領評議会議決権のある代表者持っていたため、コソボヴォイヴォディナミロシェヴィッチ派が乗っ取ったことにより、ミロシェヴィッチ派の支配下となった自治州セルビアモンテネグロ併せて大統領評議会の8議席のうち4議席ミロシェヴィッチ独占することになった。そのため、これ以外のユーゴスラビア構成する4箇国、スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナマケドニア代表者は、ミロシェヴィッチによる憲法改正計画阻止するために共同行動維持し続けなければならなかった。セルビア体制変更1990年7月5日コソボを含むセルビア全土での住民投票によって可決された。これらの動きによって、80,000人のアルバニア人コソボで職を追われることになったコソボ全ての高等教育に対して新しセルビア教育カリキュラム導入強いられた。この動きアルバニア人拒絶し既存教育機関並存する独自の教育システム設立したコソボへの影響絶大なものであった自治権縮小は、コソボ政治機構解体を伴うものであったコソボ共産主義者同盟コソボ州政府、議会は公式に解体された。コソボ産業多くは州が保有していたが、これらの企業中枢抜本的に入れ替えられた。形式的には、少数企業はその例外となった政府企業に対して忠誠の誓約要したが、ほとんどのコソボアルバニア人はその署名拒否して追放されたものの、ごく一部署名同意しセルビア国有企業となった後も雇用解かれずにいた。 アルバニア人文化的自治劇的に削減された。唯一のアルバニア語新聞である『Ridilin』は発禁され、アルバニア語でのテレビ、ラジオ放送中止された。アルバニア語は州の公用語から外された。プリシュティナ大学アルバニア人民族主義温床見られていたが、大規模に粛清された。800講義閉鎖され23,000人の学生のうち22,000人は追放された。40,000程度いたユーゴスラビア軍兵士警官は、それまでアルバニア人による治安維持機構から取って代わった強権体制は「警察国家」との非難受けた貧困失業壊滅的な状況達しコソボ人口のおよそ80%は失業者となったアルバニア人成人男性3分の1は職を求めて国外ドイツスイスなど)へと流出したミロシェヴィッチによるコソボ共産主義者同盟解体によって、アルバニア人による最大政治勢力イブラヒム・ルゴヴァ率いコソボ民主同盟へと移ったコソボ民主同盟は、コソボ自治権剥奪に対して平和的手段抵抗することで応じた。ルゴヴァは現実的な理由から、武装闘争選択しなかった。武装闘争セルビアの軍事力の前に無力であり、単に流血を招くだけと考えたためである。ルゴヴァはアルバニア人に対してユーゴスラビアセルビア国家へのボイコット求め選挙不参加徴兵拒否、そして納税拒否呼びかけた。ルゴヴァはまた、並存するアルバニア語学校病院診療所設置呼びかけた。1991年9月コソボの「影の」議会コソボ独立を問う住民投票実施したセルビア治安部隊による妨害暴力にも関わらずコソボアルバニア人人口90%の投票率であった報告されている。そして、うち98%、およそ100万票がコソボ共和国独立賛成した1992年5月2回目選挙ではルゴヴァを大統領選出したセルビア政府はこれらの投票違法であり、その結果無効であるとした。 ルゴヴァは非暴力主義に立ち平和的独立目指したが、セルビア当局独立認めなかった。しかし、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナなどの紛争抱えるために、コソボ対す対処十分に採ることができなかった。1991年6月以降ユーゴスラビア社会主義連邦共和国構成していたスロベニアクロアチアマケドニア共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ次々独立し残されセルビアとモンテネグロ新国家ユーゴスラビア連邦共和国結成する一方で、「コソボ共和国」は国際社会からも無視され1995年ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結和平会議でも顧みられことはなかった。 ルゴヴァの受動的抵抗方針によって、1990年代前半スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ独立戦争があった間、コソボ平穏に保たれていた。しかしながらコソボ解放軍登場見られるように、この平穏アルバニア人たちの間に広がる大きな不満と引き換えのものであった1990年代半ば、ルゴヴァは国際連合に対してコソボでの平和維持活動求めた1997年ミロシェヴィッチユーゴスラビア連邦共和国大統領選出された(上記のように、このユーゴスラビア連邦共和国セルビア共和国モンテネグロ共和国によって1992年4月発足した新し連邦である)。 セルビアによる抑圧が続くにつれ、アルバニア人たちの多く過激化し、その一部武力闘争のみが状況打開し得ると考えようになった1996年4月22日セルビア治安部隊隊員対す攻撃同時多発的にコソボ異な地域それぞれ発生したコソボ解放軍性質について、初期の頃は謎に包まれていた。実際には、コソボ解放軍小規模で、氏族基盤とし、組織化十分でない急進的アルバニア人集団過ぎず、その多くコソボ西部のドレニツァ(英語版地方出身であった。この時点でのコソボ解放軍は、地元農民追放者失業者であったと見られるコソボ解放軍は、コソボ国外離散したアルバニア人ディアスポラから資金援助受けていたと考えられている。そして、アルバニア人による麻薬取引拠点ヨーロッパ各地作られた。1997年初期アルバニアでは、ねずみ講破綻に伴うアルバニア暴動サリ・ベリシャ失脚の中、無秩序態となっていた。軍の武器庫から武器犯罪集団の手へと渡り、その多くが後にコソボ西部へ持ち込まれコソボ解放軍装備大幅に強化した。ブヤル・ブコシ(英語版)はスイスチューリヒ置かれ亡命政府大統領で、ブコシはコソボ共和国軍(英語版)(Forcat e Armatosura të Republikës së Kosovës; FARK)と呼ばれる組織設立した多くアルバニア人たちは、コソボ解放軍正当な解放闘争者と見ていたが、ユーゴスラビア政府からは政府市民攻撃するテロリスト呼ばれた1998年アメリカ合衆国国務省コソボ解放軍テロリスト指定した1999年アメリカ合衆国上院共和党政策委員会は、ビル・クリントン大統領政治コソボ解放軍と「実質的に同盟関係にある」ことを指摘した。 「信頼できる複数非公式情報源によると(…)、コソボ解放軍大規模なアルバニア人犯罪ネットワーク深く関与し(…)、イスラム主義イデオロギー動かされるテロリスト組織であり、イランウサーマ・ビン=ラーディンからの援助を受け(…)」 2000年BBC記事で、NATOによる戦いでは、アメリカ合衆国コソボ解放軍を「テロリスト」と規定しつつも、この時コソボ解放軍と関係を持つことを模索していたと指摘したアメリカのロバート・ジェルバード(Robert Gelbard)使節コソボ解放軍テロリスト呼んだ批判に対してジェルバード使節下院外交委員会に対して、「コソボ解放軍テロリスト活動実行しているものの、アメリカ合衆国政府によって法的にテロリスト組織認定されているわけではない」、と明らかにした。1998年6月、ジェルバード使節は、コソボ解放軍政治的指導者名乗る2人面会したアメリカその他の国々中にはコソボ解放軍資金武器流入するのを食い止めることに対して積極的ではなかったと指摘されている。コソボ紛争はじめとする一連の問題起きた旧ユーゴスラビア地域を、アメリカは「制裁外壁」の中においていた。制裁をとめることを目的としていたデイトン合意結ばれた後もこれは維持され続けたアメリカビル・クリントン大統領デイトン合意によって、ユーゴスラビアコソボに関してルゴヴァと話し合うことができるようになった主張したコソボ危機的状況1997年12月上昇したボスニア・ヘルツェゴビナ問題監督する和平履行評議会会合ドイツボン開かれた際に各国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表に対して選挙選ばれ指導者退け権利を含む強大な権限与えることに同意した。同じ時期に、西側各国外交官らはコソボについても話し合うことを企図し、ユーゴスラビアおよびセルビアコソボアルバニア人要求に対して責任があるとした。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題について話し合うコタンクト・グループ諸国が、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題解決局面入ったという認識と、セルビア対すコソボ問題解決求め対するものであった

※この「1990年 - 1998年 : セルビア統治下のコソボ」の解説は、「コソボ紛争」の解説の一部です。
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