1990年 - 1998年 : セルビア統治下のコソボ
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「コソボ紛争」の記事における「1990年 - 1998年 : セルビア統治下のコソボ」の解説
詳細は「コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)」を参照 スロボダン・ミロシェヴィッチが1990年、コソボとヴォイヴォディナの自治権を剥奪し、ミロシェヴィッチの支持者によって選ばれた新しい地元の指導者へと挿げ替え、コソボの権限縮小のプロセスを大きく進めた。両自治州はユーゴスラビアの6つの構成共和国と同様にユーゴスラビア連邦の大統領評議会に議決権のある代表者を持っていたため、コソボ、ヴォイヴォディナをミロシェヴィッチ派が乗っ取ったことにより、ミロシェヴィッチ派の支配下となった両自治州とセルビア、モンテネグロを併せて、大統領評議会の8議席のうち4議席をミロシェヴィッチが独占することになった。そのため、これ以外のユーゴスラビアを構成する4箇国、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの代表者は、ミロシェヴィッチによる憲法改正の計画を阻止するために共同行動を維持し続けなければならなかった。セルビアの体制変更は1990年7月5日、コソボを含むセルビア全土での住民投票によって可決された。これらの動きによって、80,000人のアルバニア人がコソボで職を追われることになった。コソボの全ての高等教育に対して、新しいセルビアの教育カリキュラムの導入が強いられた。この動きをアルバニア人は拒絶し、既存の教育機関と並存する独自の教育システムを設立した。 コソボへの影響は絶大なものであった。自治権の縮小は、コソボの政治機構の解体を伴うものであった。コソボ共産主義者同盟、コソボ州政府、議会は公式に解体された。コソボの産業の多くは州が保有していたが、これらの企業の中枢は抜本的に入れ替えられた。形式的には、少数の企業はその例外となった。政府は企業に対して忠誠の誓約を要したが、ほとんどのコソボのアルバニア人はその署名を拒否して追放されたものの、ごく一部は署名に同意し、セルビアの国有企業となった後も雇用を解かれずにいた。 アルバニア人の文化的自治も劇的に削減された。唯一のアルバニア語の新聞である『Ridilin』は発禁され、アルバニア語でのテレビ、ラジオ放送は中止された。アルバニア語は州の公用語から外された。プリシュティナ大学はアルバニア人民族主義の温床と見られていたが、大規模に粛清された。800の講義は閉鎖され、23,000人の学生のうち22,000人は追放された。40,000人程度いたユーゴスラビア軍の兵士や警官は、それまでのアルバニア人による治安維持機構から取って代わった。強権体制は「警察国家」との非難を受けた。貧困と失業は壊滅的な状況に達し、コソボの人口のおよそ80%は失業者となった。アルバニア人成人男性の3分の1は職を求めて国外(ドイツやスイスなど)へと流出した。 ミロシェヴィッチによるコソボ共産主義者同盟の解体によって、アルバニア人による最大の政治勢力はイブラヒム・ルゴヴァの率いるコソボ民主同盟へと移った。コソボ民主同盟は、コソボの自治権剥奪に対して平和的手段で抵抗することで応じた。ルゴヴァは現実的な理由から、武装闘争を選択しなかった。武装闘争はセルビアの軍事力の前には無力であり、単に流血を招くだけと考えたためである。ルゴヴァはアルバニア人らに対してユーゴスラビア、セルビア国家へのボイコットを求め、選挙の不参加、徴兵の拒否、そして納税の拒否を呼びかけた。ルゴヴァはまた、並存するアルバニア語の学校、病院、診療所の設置を呼びかけた。1991年9月、コソボの「影の」議会はコソボの独立を問う住民投票を実施した。セルビア治安部隊による妨害や暴力にも関わらず、コソボのアルバニア人人口の90%の投票率であったと報告されている。そして、うち98%、およそ100万票がコソボ共和国の独立に賛成した。1992年5月、2回目の選挙ではルゴヴァを大統領に選出した。セルビア政府はこれらの投票を違法であり、その結果は無効であるとした。 ルゴヴァは非暴力主義に立ち平和的独立を目指したが、セルビア当局は独立を認めなかった。しかし、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナなどの紛争を抱えるために、コソボに対する対処を十分に採ることができなかった。1991年6月以降、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していたスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナが次々に独立し、残されたセルビアとモンテネグロが新国家ユーゴスラビア連邦共和国を結成する一方で、「コソボ共和国」は国際社会からも無視され、1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結の和平会議でも顧みられることはなかった。 ルゴヴァの受動的抵抗の方針によって、1990年代前半のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで独立戦争があった間、コソボは平穏に保たれていた。しかしながら、コソボ解放軍の登場に見られるように、この平穏はアルバニア人たちの間に広がる大きな不満と引き換えのものであった。1990年代半ば、ルゴヴァは国際連合に対してコソボでの平和維持活動を求めた。1997年、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦共和国の大統領に選出された(上記のように、このユーゴスラビア連邦共和国はセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって1992年4月に発足した新しい連邦である)。 セルビアによる抑圧が続くにつれ、アルバニア人たちの多くが過激化し、その一部は武力闘争のみが状況を打開し得ると考えるようになった。1996年4月22日、セルビア治安部隊の隊員に対する攻撃が同時多発的にコソボの異なる地域でそれぞれ発生した。コソボ解放軍の性質について、初期の頃は謎に包まれていた。実際には、コソボ解放軍は小規模で、氏族を基盤とし、組織化の十分でない急進的アルバニア人の集団に過ぎず、その多くはコソボ西部のドレニツァ(英語版)地方の出身であった。この時点でのコソボ解放軍は、地元の農民や追放者、失業者らであったと見られる。 コソボ解放軍は、コソボ国外に離散したアルバニア人ディアスポラから資金援助を受けていたと考えられている。そして、アルバニア人による麻薬取引の拠点はヨーロッパ各地に作られた。1997年初期、アルバニアでは、ねずみ講破綻に伴うアルバニア暴動とサリ・ベリシャの失脚の中、無秩序状態となっていた。軍の武器庫から武器が犯罪集団の手へと渡り、その多くが後にコソボ西部へと持ち込まれ、コソボ解放軍の装備を大幅に強化した。ブヤル・ブコシ(英語版)はスイスのチューリヒに置かれた亡命政府の大統領で、ブコシはコソボ共和国軍(英語版)(Forcat e Armatosura të Republikës së Kosovës; FARK)と呼ばれる組織を設立した。多くのアルバニア人たちは、コソボ解放軍を正当な解放闘争者と見ていたが、ユーゴスラビア政府からは政府や市民を攻撃するテロリストと呼ばれた。1998年、アメリカ合衆国の国務省はコソボ解放軍をテロリストに指定した。1999年、アメリカ合衆国上院の共和党政策委員会は、ビル・クリントン大統領の政治がコソボ解放軍と「実質的に同盟関係にある」ことを指摘した。 「信頼できる複数の非公式の情報源によると(…)、コソボ解放軍は大規模なアルバニア人犯罪ネットワークに深く関与し(…)、イスラム主義のイデオロギーに動かされるテロリスト組織であり、イランやウサーマ・ビン=ラーディンからの援助を受け(…)」 2000年、BBCの記事で、NATOによる戦いでは、アメリカ合衆国がコソボ解放軍を「テロリスト」と規定しつつも、この時コソボ解放軍と関係を持つことを模索していたと指摘した。 アメリカのロバート・ジェルバード(Robert Gelbard)使節はコソボ解放軍をテロリストと呼んだ。批判に対してジェルバード使節が下院外交委員会に対して、「コソボ解放軍はテロリスト活動を実行しているものの、アメリカ合衆国政府によって法的にテロリスト組織と認定されているわけではない」、と明らかにした。1998年6月、ジェルバード使節は、コソボ解放軍の政治的指導者を名乗る2人と面会した。 アメリカやその他の国々の中には、コソボ解放軍に資金や武器が流入するのを食い止めることに対して積極的ではなかったと指摘されている。コソボ紛争をはじめとする一連の問題が起きた旧ユーゴスラビア地域を、アメリカは「制裁の外壁」の中においていた。制裁をとめることを目的としていたデイトン合意が結ばれた後もこれは維持され続けた。アメリカのビル・クリントン大統領はデイトン合意によって、ユーゴスラビアはコソボに関してルゴヴァと話し合うことができるようになったと主張した。 コソボの危機的状況は1997年12月に上昇した。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題を監督する和平履行評議会の会合がドイツのボンで開かれた際に各国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表に対して、選挙で選ばれた指導者を退ける権利を含む強大な権限を与えることに同意した。同じ時期に、西側各国の外交官らはコソボについても話し合うことを企図し、ユーゴスラビアおよびセルビアはコソボのアルバニア人の要求に対して責任があるとした。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題について話し合うコタンクト・グループ諸国が、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は解決局面に入ったという認識と、セルビアに対するコソボ問題解決の求めに対するものであった。
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