ウィーン包囲戦前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 09:51 UTC 版)
ハプスブルク家が支配するオーストリアとオスマン帝国は三十年戦争後に対立、ハンガリー、トランシルヴァニアでは紛争が絶えなかった。1664年にオスマン帝国がハンガリーへ侵攻してきた時はオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリがザンクトゴットハールドの戦い(ドイツ語版、トルコ語版、英語版)でオスマン帝国軍に勝利したが、西のフランス王ルイ14世が領土拡大の野望を抱いていたためオーストリアは積極的に動けず、ヴァシュヴァールの和約(ドイツ語版、トルコ語版、英語版)で20年の休戦、オスマン帝国の傀儡のトランシルヴァニア公アパフィ・ミハーイ1世を承認、毎年のオスマン帝国への贈与金などハプスブルク家に不利な内容を締結した。これがハンガリー・トランシルヴァニアの親ハプスブルク派貴族の反発を招き、1670年のヴェッシェレーニ陰謀の摘発と弾圧、1678年のテケリ・イムレの蜂起に繋がった。 神聖ローマ皇帝レオポルト1世は事態を重く見てハンガリーに対する弾圧を中止、1681年に絶対主義政策を撤回して貴族の宥和に勤めたが、テケリはゲリラ活動を続け、1683年にオスマン帝国大宰相カラ・ムスタファ・パシャがテケリの要請を受けて出兵、第二次ウィーン包囲を敢行した。 ウィーン包囲戦はレオポルト1世の呼びかけに応えた神聖ローマ帝国諸侯とポーランド王ヤン3世の急襲で失敗、カラ・ムスタファは責任を問われ処刑された。オスマン帝国は隆盛を保っていたが、オーストリア軍はハンガリーの都市エステルゴムを奪取して準備を整え、翌1684年にローマ教皇インノケンティウス11世の提唱でポーランド・ヴェネツィアと神聖同盟を結び、ハンガリーへ侵攻した。後にロシアも神聖同盟に加盟、オスマン帝国の従属下にある黒海のクリミア・ハン国を攻撃している。
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