ウィーン包囲まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:47 UTC 版)
「レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ウィーン包囲まで」の解説
1660年、ラーコーツィ・ジェルジ2世がオスマン帝国軍に敗死、バルチャイ・アーコシュがオスマン帝国に擁立され、ラーコーツィ・ジェルジ2世の側近ケメーニ・ヤーノシュもトランシルヴァニア公を名乗り、互いに対立していった。1661年、レオポルト1世は将軍ライモンド・モンテクッコリをハンガリーに送ったが、ケメーニ・ヤーノシュは1662年に戦死したため、オスマン帝国側のアパフィ・ミハーイ1世が即位した。オスマン帝国のハンガリー侵攻は続けられ、1663年のレーゲンスブルク帝国議会でレオポルト1世は諸侯を招集して援助を受け取り、ハンガリーのモンテクッコリに送った。 1664年にセントゴットハールドの戦いでモンテクッコリはオスマン帝国軍に勝利したが、オーストリアはフランスとの内紛も抱えていたため反撃に出ることなく和睦、ヴァシュヴァールの和約を結んでオスマン帝国に大幅な有利な条件で20年にわたり休戦した。これがハンガリーの親ハプスブルク派貴族を憤慨させ、ハプスブルク家とオスマン帝国からの独立を考えるようになった。 1668年にルイ14世とスペイン分割条約を結び、甥で母方の従兄弟にも当たるカルロス2世(母方の伯父フェリペ4世と姉マリア・アンナの息子)亡き後のスペイン領の配分を取り決めた。しかし、ルイ14世がオランダ侵略戦争を起こすと他の帝国諸侯と共に反フランスに立って参戦している。また、1670年にロレーヌ公国をフランスに奪われたシャルル4世を保護して軍人に取り立て、死後はその甥のシャルル5世も軍人として登用、後に異母妹エレオノーレと結婚させている(この2人の孫が、レオポルトの孫娘マリア・テレジアの夫となる皇帝フランツ1世である)。 トランシルヴァニアでは1670年に反ハプスブルク派によるヴェッシェレーニ陰謀が露見、厳罰に処した。レオポルト1世はこれを機にハンガリーに絶対主義浸透を図り、副王(ナードル)職の廃止とハンガリー議会の停止、宗教統一を図ってプロテスタント弾圧政策を実施したが、あまりに残酷な処置を取ったためハンガリー貴族は一斉に反抗運動を起こし、フランスとオスマン帝国の援助を受けてテケリ・イムレが1678年に反乱を起こしてハンガリーをほとんど制圧した。1679年にウィーンにペストが流行した影響もあって、レオポルト1世は1681年にハンガリー議会を開き、絶対主義政策を撤回、副王の復活とプロテスタント弾圧の中止と寛容政策をとることを約束した。反乱側もレオポルト1世と和睦したが、テケリは妥協せず反抗を続けた。 1682年から再びオスマン帝国の侵攻を受け、翌1683年にはテケリらと手を結んだオスマン帝国によってウィーンを包囲されるに至った(第二次ウィーン包囲)。レオポルト1世はウィーンから脱出してパッサウへ移動、ドイツ諸侯へ救援を呼びかけ、ポーランド王ヤン3世、ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムなどの軍事的支援の結果、撃退させることに成功した。この戦いはオスマン帝国の衰退を意味すると同時に、一国だけでは侵攻を撃退させることが出来ないほどのオーストリアの弱体ぶりを露呈させてしまう事態となったが、東へ反撃に打って出る好機でもあった。
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