オスマン帝国の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/07 07:27 UTC 版)
オスマン帝国がヨーロッパへ勢力拡大に動き、コソボの戦いでバルカン諸侯軍を撃破するとオスマン帝国のバルカン半島支配が決定的となった。そのため、ブルガリア、セルビアはオスマン帝国支配下となりギリシャ、ボスニア、アルバニアもその攻撃を受けた。そのなか、現在のルーマニア南部に位置するワラキアのミルチャ1世 (en) はオスマン帝国の宗主権を受け入れざるを得ない状況に陥り、1411年以降、オスマン帝国へ朝貢を行い、その公位もオスマン帝国の意思によって左右される事態に至った。 一時期、ウラド3世の時代には遠征してきたオスマン帝国スルタンメフメト2世を2度に渡って撃退し、ミハイ勇敢侯 (en) の時代にはオスマン帝国を撃退してモルダヴィア、トランシルバニアを併合、ルーマニア統一に成功した。しかし、ミハイ勇敢侯が死去すると再びワラキアはオスマン帝国支配下となったが、ギリシャ、セルビア、ブルガリアと違い半独立状態で自治権は与えられた。 当初、モルダヴィア、ワラキアはオスマン帝国へ貢納することで自治権を認められていたが、公爵の地位などをめぐって貴族(ボィエール) (en) らの間で争いが生じた。このため、ボィエールらは自らを有利にするためにオスマン帝国の高官らへ賄賂を送るようになったが、これは公爵の地位をオスマン帝国が左右することにつながった。そしてオスマン帝国占領下で認められた正教会を抑えていたためにその地位が向上していたギリシャ人らがワラキア、モルダヴィアへ移住しはじめた。 露土戦争 (1710年-1711年)でオスマン帝国が勝利した1711年以降、ワラキア及びモルダヴィアの諸侯の地位はオスマン帝国の監督下となり、その公位をオスマン帝国で特権を有していたギリシャ人であるファナリオティスが務めるようになった。この中にはイプシランディス家 (en) 、マヴロコルダトス家 (en) といった後にギリシャ独立戦争で活躍する一族も着任した。そしてこのオスマン帝国による統治は徐々に肥大化していたオスマン帝国の維持のために貢納など搾取され、果てには公位でさえも競売される事態に至り、なおかつ極一部の公位を買うことのできるファナリオティスらに独占された。 ワラキア、モルダヴィア両公国は軍隊が廃止されて儀礼など必要最小限にされ、外交権もオスマン帝国の管理下に置かれた。そして搾取はワラキアの人々の困窮と反感をもたらし、18世紀以降、農民らは土地から逃亡し、さらにヨーロッパがオスマン帝国に対して優位になるとオスマン帝国は国の維持のために搾取を強化、これにワラキアの人々は抵抗を強めていった。
※この「オスマン帝国の侵攻」の解説は、「ワラキア蜂起」の解説の一部です。
「オスマン帝国の侵攻」を含む「ワラキア蜂起」の記事については、「ワラキア蜂起」の概要を参照ください。
オスマン帝国の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 12:01 UTC 版)
「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の記事における「オスマン帝国の侵攻」の解説
1462年春までに、メフメト2世はボスニア征服を決断した。対するスティエパン・トマシェヴィチとコサチャはキリスト教国の君主たちに援軍を求めたが、状況は絶望的だった。スティエパン・トマシェヴィチは教皇特使を常に宮廷内に留めて教皇との連絡を取り続け、できる限り多くの兵を脅かされたボスニア王国に集めようとした。また隣のラグサ共和国を通してアルバニアの支配者スカンデルベグに助けを求めた。スカンデルベグはボスニアへ援軍を派遣するため、ヴェネツィア共和国にその領土(アルバニア・ヴェネタ)内での軍勢通行を認めさせた。ヴェネツィアはボスニアを直接支援せず、スティエパン・トマシェヴィチとコサチャに自らの軍を信じるよう伝えるばかりだった。アドリア海の対岸のナポリ王フェルディナンド1世なども国内問題に集中しており、精神援助以上のことをボスニアにすることはなかった。 国外でできうる限りの手を打とうとするスティエパン・トマシェヴィチだったが、一方でボスニア人内でもにオスマン帝国へ反抗しようという意思が弱いことにも気づいた。彼は教皇に対し、おそらく(オスマン帝国の安定した統治と対照的に)増大する搾取と終わりの見えない戦争のせいで、在地の人々がオスマン帝国に頼ろうとしている、と訴えている。以前からボスニア教会の長老たちがカトリックに強制改宗させられていたことも、水面下で民衆が不満を募らせる重大な原因になっていた。同時代人の記録によれば、スティエパン・トマシェヴィチは王家への忠誠心を喚起するために惜しみなく贈り物や名誉称号をばらまき、かつての「異端」も含む信用ならない人々に対してすらも城壁都市内に暮らす権利を与えたという。しかしボスニアの防衛体制を最も揺るがしたのは、1462年春に再発したコサチャとその息子ヴラディスラヴ・ヘルツェゴヴィチの間の抗争であった。ヴラディスラヴはその年の後半にメフメト2世に助けを求め、受け入れられた。 マーチャーシュ1世の援軍約束や、おそらくニコラ・モドルシュキ司教の励ましもあり、気を大きくしたスティエパン・トマシェヴィチは1462年6月に軽率で致命的な過ちを犯した。ピウス2世の日記によれば、スティエパン・トマシェヴィチは「望みを見せてくれた者をあてにして」、「彼の先祖たちが長きにわたり収めてきたオスマン帝国への貢納を停止し、オスマン帝国がハンガリー人やスラヴ人を恐怖に陥れるためサヴァ川とボスナ川の合流点に建設していた都市を襲撃した」。ラオニコス・ハルココンディリスによれば、スティエパン・トマシェヴィチはオスマン帝国の使節を自身の宝物庫に招き、もともとオスマン帝国に納めるために取り分けられていた金を見せたうえで、この金はオスマン帝国の侵略と戦うか、亡命の糧にするために使うつもりだ、と使節に語ったという。メフメト2世はスティエパン・トマシェヴィチの大胆不敵な抵抗に激怒した。ピウス2世が詳しく書き記しているところによると、メフメト2世がボスニアを征服しスティエパン・トマシェヴィチを破滅させるという誓いを立てたと聞いたスティエパン・トマシェヴィチは、ニコラ・モドルシュキ司教を呼びつけ、彼がスルターンを怒らせたのだと非難した。また彼はモドルシュキに、直ちにハンガリーへ行き即効性のあるオスマン帝国対策を講じるよう命じた。しかしこの時点で、キリスト教諸国からボスニアへの援軍は一切到着していなかった。マーチャーシュ1世も、スカンデルベグも、ラグサ共和国も、スティエパン・トマシェヴィチとの約束を守ることができなかったのである。 私は最初に嵐の到来を予期していたのです。(中略)私の父はあなたの前任者ニコラウス5世とヴェネツィア人に、コンスタンティノープルの陥落を予言していました。彼はそれを信じませんでした。(中略)今この時、私は自らについて予言いたします。もしあなたが私を信用し助けるならば、私はきっと救われるでしょう。もしそうしなかったら、私はきっと斃れ、多くの者が私と共に滅びるでしょう。 スティエパン・トマシェヴィチからピウス2世に送られた書簡の一部 1463年春、メフメト2世はエディルネに15万人の軍勢を集結させ、ボスニアへ侵攻した。極めて望み薄ながら、この時に至ってもスティエパン・トマシェヴィチはメフメト2世に15年の休戦を提案している。コンスタンティノヴィチによれば、オスマン側はボスニアから来た使節を騙して、和平提案が受け入れられるかもしれないという望みを抱かせたという。コンスタンティノヴィチ自身はこの場に居合わせ、なんとか使節にこの策略を伝えようとした、と主張している。この使節のあと間もなく、メフメト2世の軍は侵攻を始めた。ボスニア王国の要塞は瞬く間に陥落していき、スティエパン・トマシェヴィチは家族や財産と共にボボヴァチからヤイツェへ逃れた。5月19日、大宰相マフムド=パシャ・アンジェロヴィチ率いるオスマン軍がボボヴァチを包囲し、翌日メフメト2世も軍を率いて合流した。アンジェロヴィチはスティエパン・トマシェヴィチの身柄を確保する任務を与えられた。一方スティエパン・トマシェヴィチはボボヴァチが2年は耐えられると踏んで、ヤイツェに軍勢を集結させる計画を練った。この時に至っても、彼の計画は外国からの援軍をあてにしていた。この間にスティエパン・トマシェヴィチは王妃マリアと継母カタリナに財産を託し、前者をダルマチアへ、後者をラグサへ逃した。
※この「オスマン帝国の侵攻」の解説は、「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の解説の一部です。
「オスマン帝国の侵攻」を含む「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の記事については、「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の概要を参照ください。
オスマン帝国の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/05 14:37 UTC 版)
「ビレチャの戦い」の記事における「オスマン帝国の侵攻」の解説
オスマン帝国のボスニア侵攻は、1388年8月前半に現実のものとなった。ムラト1世は、ジュラジ2世を支援させるべくララ・シャヒーン・パシャを出撃させた。オスマン軍がボスニア王国のすぐ南のザクルミアに入ったのを受けて、近隣のラグサ共和国はジュラジ2世のもとに使者を送り懸念を示した。8月15日、ラグサは侵略者を避けて逃げてくるボスニアの領民を受け入れることに決め、貴族と庶民をそれぞれドゥブロヴニクとストンの島に避難させることにした。ストンを防衛するための城壁も準備された。8月19日、島の全住民は防衛態勢を整える仕事を課され、翌日にはスティエパン・トヴルトコ1世も1000人の人員を送って工事を助けた。また、もうすぐ近くまで迫っていたララ・シャヒーン・パシャのもとには密使が派遣された。ラグサ人は差し迫った危機から自らを守るためあらゆる手を尽くそうとしており、この密使はおそらくオスマン軍司令官との交渉と内偵の両方の任務を帯びていたと考えられている。8月22日にはハンガリー王国の宮廷からも使者が到着した。 ムラト1世が派遣してきたオスマン軍の規模は分かっていないが、自らの子を軍列に加えていることから、相当な規模を有していたとみられる。王国を征服するほど大規模ではないにしろ、単に敵地を略奪するだけの一団という規模でもなかった。遠征の目的は、ボスニアを略奪破壊するとともに、ムラト1世の武威を誇示することであった。
※この「オスマン帝国の侵攻」の解説は、「ビレチャの戦い」の解説の一部です。
「オスマン帝国の侵攻」を含む「ビレチャの戦い」の記事については、「ビレチャの戦い」の概要を参照ください。
オスマン帝国の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 03:33 UTC 版)
「ロドス包囲戦 (1522年)」の記事における「オスマン帝国の侵攻」の解説
1522年6月26日、チョバン・ムスタファ・パシャ率いる400隻のオスマン軍がロドス島に到達した。さらに7月28日、スレイマン1世が10万の兵とともに上陸し、自ら指揮を執った。 オスマン海軍は港湾を封鎖し、上陸した陸軍は大砲で市街を砲撃しつつ、要塞への攻撃をほぼ毎日続けた。城壁に対する砲撃は芳しい効果が出なかったため、城壁の下に向けてトンネルが掘り進められ、9月4日には2つの坑道で火薬を爆発させ、イングランド砦の防壁を11mにわたって崩落させた。ただちに歩兵がこの地点から強襲をかけ、イングランド砦は一旦占領された。しかし騎士団は総長リラダン自らの指揮により砦の奪還に成功した。同日にオスマン軍は2度にわたり同様の強襲を行ったが跳ね返され、イングランド軍団とドイツ軍団によって城壁の崩落部は埋められた。 9月24日、ムスタファ・パシャはスペイン砦・イングランド砦・プロヴァンス砦・イタリア砦に対する同時総攻撃を命じた。スペイン砦などでは2度も占有者が変わる激戦となったが、攻め切れないとみたスレイマン1世は攻撃を停止させた。この攻撃失敗の咎によりスレイマン1世はムスタファ・パシャを処刑しようとしたが、他の重臣の説得で司令官の解任にとどめた。新たに指揮を執ることとなったアフメト・パシャは攻城戦の専門家であり、彼の元でオスマン軍の戦略は坑道掘削からの城壁爆破と絶え間ない砲撃を主軸とするようになった。中世ヘレニズム的な都市であるロドスの市街の排水渠は、オスマン軍の工兵にとって格好の目印となった。 11月の終わりにオスマン軍は再び大規模な総攻撃をかけたが、これも要塞を完全制圧するには至らなかった。この時点で、両陣営ともに疲弊が頂点に達していた。騎士団にはもはや無傷の者はおらず、一方面に援軍を回すような余裕もなくなっていた。オスマン軍も戦闘や疫病による膨大な死者を出しており、士気が下がる一方だった。スレイマン1世はロドスの市民に対し、降伏すれば生命、安全、食を保証するという条件を提示した。これはオスマン帝国が出す降伏条件としては破格に緩いものであり、これを断れば、死ぬか奴隷となる道しかなかった。市民の要求により、ついにリラダンら騎士団も和平交渉の席に着くことを決断し、交渉のため12月11日から13日にかけて停戦が結ばれた。しかし市民が自分たちの安全をより強固に保証するよう求めてきたことに腹を立てたスレイマン1世は、要塞への砲撃と強襲の再開を命じた。12月17日、スペイン砦が陥落した。もはやほとんどの城壁は崩れ、全要塞の陥落も時間の問題だった。12月20日、リラダンは市民の圧力により再度の停戦と交渉を申し出た。
※この「オスマン帝国の侵攻」の解説は、「ロドス包囲戦 (1522年)」の解説の一部です。
「オスマン帝国の侵攻」を含む「ロドス包囲戦 (1522年)」の記事については、「ロドス包囲戦 (1522年)」の概要を参照ください。
- オスマン帝国の侵攻のページへのリンク