オスマン帝国による迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 07:20 UTC 版)
「アッシリア人」の記事における「オスマン帝国による迫害」の解説
20世紀初頭、ムスリムなどから迫害を受けたアッシリア人はベート・ナハライン一帯を含む当時のイラクを植民地としていたイギリスからの援助を得ようとした他、ガージャール朝ペルシア領内のキリスト教徒はアメリカ合衆国の宣教師と接点を持っていた。 故に第一次世界大戦中、オスマン帝国は彼らが敵国のイギリス国教会やロシア正教会、アメリカなどと繋がりがあると疑い、ギリシア人やアルメニア人と同時に迫害した。1914年から1920年までの間にトルコ人とクルド人の兵士を利用し、25万人(当時のオスマン帝国領内におけるアッシリア人全体の人口の約3分の2)にも上る民間人を殺害した。よって多くのアッシリア人がディアスポラとして欧米などに流れ、民族主義を目覚めさせる要因を作った。当時のイギリスはアッシリア人側から援助するよう要求されていたにもかかわらず、先述の大戦での総力戦で国力が疲弊しており、虐殺を食い止めることは出来なかった。なお、このときアッシリア総主教マル・エシャイ・シムン23世(1908年-1975年。在位1918年-1975年)は前任者が虐殺に巻き込まれたことにより、僅か11歳でアッシリア総主教に選出された。 虐殺が終わってから3年後のケマル・アタテュルクによるトルコ共和国成立以降、トルコ政府側はアルメニア人ジェノサイド同様これを否定し続けているが、世界各地に散らばったディアスポラらは虐殺を認めるよう世界各地で呼びかけを行っている。
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