オスマン帝国の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:40 UTC 版)
1453年、コンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国のメフメト2世は、「カイセリ・ルーム(ローマ皇帝)」を名乗り始めた。 この主張はギリシア正教のコンスタンティノープル総主教に承認されたが、西欧のローマ・カトリック圏は否認した。以前から東西教会の合同に反対し、メフメト2世によってビザンティウムの正教の権限をすべて任されていたゲンナディオス2世は、見返りとしてメフメト2世をローマの継承者として認めた。 そもそもメフメト2世の主張は、330年のコンスタンティノープル遷都と西ローマ帝国滅亡の後コンスタンティノープルこそがローマ帝国の存立する土地であるという考え方を前提としている。またメフメトは血統の面からも、彼の先祖オルハンがビザンツ帝国の皇女を妃としていること(ただし子は生まれていない)、また自身がビザンツの皇族ヨハン・チェレペス・コムネノスの子孫であることなどを主張してビザンツ帝国継承を正当化した。 またメフメト2世はイタリアのオトラントを占領し(オトラントの戦い)、イタリア・ローマを征服する計画であったが、彼の急死により果たせなかった。 メフメト2世の死後、オスマン帝国がビザンツ帝国を継承したとする言説は公式にも潜まっていった。
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