オスマン帝国の参戦とは? わかりやすく解説

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オスマン帝国の参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)

第一次世界大戦」の記事における「オスマン帝国の参戦」の解説

ドイツによるオスマン帝国への軍事派遣団(ドイツ語版)とバグダード鉄道建設により、オスマン帝国ドイツ接近した。さらに、オスマン帝国イギリス戦艦スルタン・オスマン1世とレシャディエを注文しており、代金支払っていたが、イギリス開戦直後1914年8月1日に両艦を強制接収した。それでもオスマン帝国政府は「武装中立」を維持しようとしたが、政権握っていた青年トルコ人には列強のどこかに依存しなければ軍事的に維持できないこと明らかだった最終的にエンヴェル・パシャによりオスマン・ドイツ同盟英語版)、およびオーストリア=ハンガリーとの同盟締結されたが、この同盟内閣でも賛否両論だった。 ヴィルヘルム・スション(英語版率いる、ドイツ地中海艦隊英語版)の巡洋戦艦ゲーベンマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウイギリス地中海艦隊による追跡振り切り、8月16日オスマン帝国首都コンスタンティノープル逃げ込んだゲーベン追跡戦)。両艦はそのままオスマン帝国買い上げられ、スション以下ドイツ人乗員は両艦が10月29日出撃して黒海沿岸ロシア都市襲撃した黒海襲撃英語版))以降も両艦に残った9月27日ダーダネルス海峡正式に封鎖され国際船舶航行禁止された。11月初、イギリスフランスロシアオスマン帝国宣戦布告した11月14日朝、シェイヒュルイスラームのウルグプリュ・ムスタファ・ハイリ・エフェンディ(トルコ語版)はスルタンメフメト5世による勅令従いコンスタンティノープルファティフ・モスク英語版)の前で敵対国対すジハード宣言した。しかし、宣言呼応したのはイギリスアフガニスタン部隊一部だけ(1915年2月15日のシンガプール反乱 (Singapur))であったバーラクザイ朝アフガニスタン首長国でのイギリス対す反感にも影響したが、それは1919年第三次アングロ・アフガン戦争英語版以降のことだった。 宣戦布告直後11月6日イギリスインド軍はアングロ・ペルシア石油会社英語版)の利権守ろうとしてペルシア湾アル=ファオ上陸戦敢行、これによりメソポタミア戦役英語版)が開始された。イギリス軍オスマン軍蹴散らした後(バスラの戦い英語版))、11月23日バスラ占領したカフカース戦役英語版)ではロシア軍11月ベルグマン攻勢英語版)を開始したロシア軍攻勢撃退すると、オスマン第3軍英語版)は反撃転じたが、真冬の中で行われたサリカミシュの戦い英語版)で大敗したアルメニア人義勇軍ロシア側で戦ったため、オスマン帝国残っていたアルメニア人対する目が冷たくなったが、アルメニア人大半オスマンについたままだった。ロシア軍長らく占領していたペルシア北東部から進撃したペルシア戦役英語版))。一方シナイ半島パレスチナ戦役英語版)は1914年時点では大きな戦役はなかった。

※この「オスマン帝国の参戦」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「オスマン帝国の参戦」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。

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