オスマン帝国の参戦
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「第一次世界大戦」の記事における「オスマン帝国の参戦」の解説
ドイツによるオスマン帝国への軍事派遣団(ドイツ語版)とバグダード鉄道の建設により、オスマン帝国はドイツに接近した。さらに、オスマン帝国はイギリスに戦艦スルタン・オスマン1世とレシャディエを注文しており、代金も支払っていたが、イギリスは開戦直後の1914年8月1日に両艦を強制接収した。それでもオスマン帝国政府は「武装中立」を維持しようとしたが、政権を握っていた青年トルコ人には列強のどこかに依存しなければ軍事的に維持できないことが明らかだった。最終的にはエンヴェル・パシャによりオスマン・ドイツ同盟(英語版)、およびオーストリア=ハンガリーとの同盟が締結されたが、この同盟は内閣でも賛否両論だった。 ヴィルヘルム・スション(英語版)率いる、ドイツの地中海艦隊(英語版)の巡洋戦艦ゲーベンとマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウがイギリスの地中海艦隊による追跡を振り切り、8月16日にオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに逃げ込んだ(ゲーベン追跡戦)。両艦はそのままオスマン帝国に買い上げられ、スション以下ドイツ人乗員は両艦が10月29日に出撃して黒海沿岸のロシア都市を襲撃した(黒海襲撃(英語版))以降も両艦に残った。9月27日、ダーダネルス海峡が正式に封鎖され、国際船舶の航行が禁止された。11月初、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告した。11月14日朝、シェイヒュルイスラームのウルグプリュ・ムスタファ・ハイリ・エフェンディ(トルコ語版)はスルタンのメフメト5世による勅令に従い、コンスタンティノープルのファティフ・モスク(英語版)の前で敵対国に対するジハードを宣言した。しかし、宣言に呼応したのはイギリスのアフガニスタン部隊の一部だけ(1915年2月15日のシンガプール反乱 (Singapur))であった。バーラクザイ朝アフガニスタン首長国でのイギリスに対する反感にも影響したが、それは1919年の第三次アングロ・アフガン戦争(英語版)以降のことだった。 宣戦布告直後の11月6日、イギリスとインド軍はアングロ・ペルシア石油会社(英語版)の利権を守ろうとしてペルシア湾でアル=ファオ上陸戦を敢行、これによりメソポタミア戦役(英語版)が開始された。イギリス軍はオスマン軍を蹴散らした後(バスラの戦い(英語版))、11月23日にバスラを占領した。 カフカース戦役(英語版)ではロシア軍が11月にベルグマン攻勢(英語版)を開始した。ロシア軍の攻勢を撃退すると、オスマン第3軍(英語版)は反撃に転じたが、真冬の中で行われたサリカミシュの戦い(英語版)で大敗した。アルメニア人義勇軍がロシア側で戦ったため、オスマン帝国に残っていたアルメニア人に対する目が冷たくなったが、アルメニア人の大半はオスマン側についたままだった。ロシア軍は長らく占領していたペルシア北東部から進撃した(ペルシア戦役(英語版))。一方、シナイ半島とパレスチナ戦役(英語版)は1914年時点では大きな戦役はなかった。
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