オスマン帝国の台頭とヴェネツィアの退場
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「クレタ島の歴史」の記事における「オスマン帝国の台頭とヴェネツィアの退場」の解説
14世紀半ば以降、東地中海ではアナトリアに興ったオスマン帝国が急速に存在感を増していた。ヴェネツィアはビザンツ系の勢力を支援したりキリスト教連合戦線に参加したりしてオスマン帝国の拡大に対抗しようとしたが、これらはいずれも大きな成果を上げることは無かった。15世紀にはビザンツ帝国は孤立した断片的な領土をバルカン半島にいくつか維持するに過ぎなかった。ヴェネツィアは残されたビザンツ領にある都市の防衛や補給を請け負い、首都コンスタンティノープルの防衛にも参加したが、最終的にオスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを陥落させビザンツ帝国にとどめを刺した。このような情勢はクレタ島を含む東地中海領土が離反してオスマン帝国の庇護を求める可能性をヴェネツィア本国に心配させ、ヴェネツィアは海外領土の要望を救い上げる陳情制の確立や、海外領土の事情に合わせた現地の法律などを導入し始めた。こうした流れを受けて、14世紀末にようやくヴェネツィアのクレタ支配は安定の兆しを見せ始める。 しかし、オスマン帝国の膨張圧力にヴェネツィアは対抗できず、クレタ島周辺のヴェネツィア領土は15世紀から16世紀にかけて次々とオスマン帝国の支配下に入っていった。ヴェネツィアにとってクレタ島と並ぶ東地中海の重要拠点であったキュプロス島も1571年にはオスマン帝国に制圧された。同年のレパントの海戦の勝利によってクレタ島はヴェネツィアの手に残され、経済的活況を呈してなお多くの富をヴェネツィアにもたらしたが、東地中海からヴェネツィア人が撤退していく潮流は明らかであった。16世紀初頭にはまだクレタ島の貿易は名目的にはヴェネツィアの独占の下にあったが既に形骸化しており、16世紀を過ぎる間に完全に崩れ去った。1600年までにはクレタ島の主要な交易相手はイスタンブル(コンスタンティノープル)に変わっていた。現代ギリシア(ギリシャ)の歴史学者Mavroeideはこれを「〈クレタ島は〉ヴェネツィア経済圏ではなくオスマン経済圏に属するようになった」と表現している。ヴェネツィア人の優勢が崩壊した東地中海世界では様々な人々がヴェネツィアに代わって海上交易に進出し、クレタ島の交易も成長する現地のギリシア人商人やジェノヴァ人商人が食い込むようになった。また、1522年にオスマン帝国によってロードス島から追い払われた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)は1530年にマルタ島に落ち着いた後、「異教徒との戦い」の一環としてオスマン帝国の臣民や荷物を運び、あるいはユダヤ人によって営業されるヴェネツィア船に対して海賊行為を働き、1553年にはクレタ島の港を襲撃した。クレタ島とイスタンブルとの間の密接な関係は人の移動にも表れている。元クレタ総督ザカリア・モチェニーゴ(Zacharia Mocenigo)が1589年に書いた記録では、クレタ島やヴェネツィアの造船所の劣悪な待遇を嫌った造船技師たちが高い報酬を求めてイスタンブルに移住していたという。16世紀にはイスタンブルのガラタ地区在住のギリシア人の大半がクレタ島出身者であった。17世紀に入ると喜望峰周りの新たなインド航路の発見や周辺諸国の産業構造の変化、オスマン帝国の動向などの影響を受けて、ヴェネツィアの海上交易は退潮傾向がはっきりしており、ヴェネツィアの産業構造は広域の海運業からよりローカルな貿易や奢侈品の製造、食料品の販売や各種のサービス業へと移っていった。 この度の戦争に必要な巨費をまかなうために、共和国は関税、消費税、十分の一税などすべての通常税を増やした。ギルドはいっそう重い課税をうけ、官職、公有地、教会の土地は売却の対象となった。一〇万ドゥカーティを支払った者はだれでも貴族階級に加わることが許された。商業活動はこれによって大いに阻害されるにいたる。それというのも、もともと貿易につかわれていた多額の金が貴族身分を買いとることに振り向けられたからである。ヴェネツィアは甚大な被害をこうむった。貿易は周知のように、共和国の魂であったのである。 1670年代初頭の元老院(英語版)報告 1644年、オスマン帝国の宮廷人を載せた船がマルタ騎士団の襲撃を受け、戦利品がクレタ島のハニアで売却された。オスマン帝国のスルタン、イブラーヒームはこの責任をヴェネツィアに問い、翌1645年に350隻の艦隊を派遣してクレタ島を攻撃した(クレタ戦争(英語版)、カンディア戦争とも)。オスマン帝国の攻撃にヴェネツィアは有効に対応できず、開戦から3年余りのうちにクレタ島のほぼ全域がオスマン帝国に制圧され、首都カンディアだけがヴェネツィアに残された。 オスマン帝国はカンディアを包囲したが、ヴェネツィアは東地中海に残されたこの最後かつ最大の重要拠点を守るために多大な努力を払った。その結果包囲は20年以上にもおよぶ、欧州の戦史において特筆すべき長期戦となった。オスマン帝国軍に対するヴェネツィアの戦いは特に海上の戦いにおいて数々の英雄的物語を生み出し、それに感銘を受けたキリスト教国からの支援が贈られ、最終局面ではフランスが援軍を送りさえした。しかし陸上戦闘におけるオスマン帝国の優位は揺るぐことが無く、1667年から繰り返されたオスマン帝国の総攻撃の前にフランス軍は撤退し、ヴェネツィアの司令官フランチェスコ・モロジーニは遂に1669年に継戦を断念し、9月6日、クレタ島の放棄に同意した。クレタ戦争は決定的とは言えない程度ではあるにせよヴェネツィアに大きな財政的・人的負担を強い、その結末はクレタ島を含む東地中海のヴェネツィア体制の終了を公式に告げるものとなった。
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