オスマン帝国の台頭とヴェネツィアの退場とは? わかりやすく解説

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オスマン帝国の台頭とヴェネツィアの退場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)

クレタ島の歴史」の記事における「オスマン帝国の台頭とヴェネツィアの退場」の解説

14世紀半ば以降東地中海ではアナトリア興ったオスマン帝国急速に存在感増していた。ヴェネツィアビザンツ系の勢力支援したキリスト教連合戦線参加したりしてオスマン帝国拡大対抗しようとしたが、これらはいずれ大きな成果上げることは無かった15世紀にはビザンツ帝国孤立した断片的な領土バルカン半島いくつか維持するに過ぎなかった。ヴェネツィア残されビザンツ領にある都市防衛補給請け負い首都コンスタンティノープル防衛にも参加したが、最終的にオスマン帝国1453年コンスタンティノープル陥落させビザンツ帝国にとどめを刺したこのような情勢クレタ島を含む東地中海領土離反してオスマン帝国庇護求め可能性ヴェネツィア本国心配させ、ヴェネツィア海外領土要望救い上げる陳情制の確立や、海外領土事情合わせた現地法律などを導入し始めたこうした流れ受けて14世紀末にようやくヴェネツィアクレタ支配安定兆し見せ始める。 しかし、オスマン帝国膨張圧力ヴェネツィア対抗できず、クレタ島周辺ヴェネツィア領土15世紀から16世紀にかけて次々とオスマン帝国の支配下に入っていった。ヴェネツィアにとってクレタ島と並ぶ東地中海の重要拠点であったキュプロス島1571年にはオスマン帝国制圧された。同年レパントの海戦勝利によってクレタ島ヴェネツィアの手残され経済的活況呈してなお多くの富をヴェネツィアもたらしたが、東地中海からヴェネツィア人撤退していく潮流は明らかであった16世紀初頭にはまだクレタ島貿易名目的にはヴェネツィア独占の下にあったが既に形骸化しており、16世紀を過ぎる間に完全に崩れ去った1600年までにはクレタ島主要な交易相手イスタンブルコンスタンティノープル)に変わっていた。現代ギリシアギリシャ)の歴史学者Mavroeideはこれを「〈クレタ島は〉ヴェネツィア経済圏ではなくオスマン経済圏属すようになった」と表現している。ヴェネツィア人優勢崩壊した東地中海世界では様々な人々ヴェネツィアに代わって海上交易進出しクレタ島交易成長する現地ギリシア人商人ジェノヴァ人商人食い込むようになったまた、1522年オスマン帝国によってロードス島から追い払われ聖ヨハネ騎士団マルタ騎士団)は1530年マルタ島落ち着いた後、「異教徒との戦い」の一環としてオスマン帝国臣民荷物運び、あるいはユダヤ人によって営業されるヴェネツィアに対して海賊行為働き1553年にはクレタ島の港を襲撃したクレタ島イスタンブルとの間の密接な関係は人の移動にも表れている。元クレタ総督ザカリア・モチェニーゴ(Zacharia Mocenigo)が1589年書いた記録では、クレタ島ヴェネツィア造船所劣悪な待遇嫌った造船技師たちが高い報酬求めてイスタンブル移住していたという。16世紀にはイスタンブルガラタ地区在住ギリシア人大半クレタ島出身者であった17世紀に入ると喜望峰周り新たなインド航路発見周辺諸国産業構造の変化オスマン帝国動向などの影響受けてヴェネツィア海上交易退潮傾向はっきりしており、ヴェネツィア産業構造広域海運業からよりローカルな貿易奢侈品製造食料品販売各種サービス業へと移っていった。 この度戦争必要な巨費まかなうために、共和国関税消費税十分の一税などすべての通常税を増やしたギルドはいっそう重い課税をうけ、官職公有地教会土地売却対象となった一〇ドゥカーティを支払った者はだれでも貴族階級に加わることが許された。商業活動はこれによって大い阻害されるにいたる。それというのも、もともと貿易につかわれていた多額の金が貴族身分を買いとることに振り向けられたからである。ヴェネツィア甚大な被害こうむった貿易周知のように共和国の魂であったのである1670年代初頭元老院英語版報告 1644年オスマン帝国宮廷人を載せた船がマルタ騎士団襲撃を受け、戦利品クレタ島ハニア売却された。オスマン帝国スルタンイブラーヒームはこの責任ヴェネツィア問い、翌1645年350隻の艦隊派遣してクレタ島攻撃したクレタ戦争英語版)、カンディア戦争とも)。オスマン帝国の攻撃ヴェネツィア有効に対応できず、開戦から3年余りのうちにクレタ島のほぼ全域オスマン帝国制圧され首都カンディアだけがヴェネツィア残された。 オスマン帝国カンディア包囲したが、ヴェネツィア東地中海残されたこの最後かつ最大の重要拠点を守るために多大な努力払ったその結果包囲20年以上にもおよぶ、欧州戦史において特筆すべき長期戦となったオスマン帝国軍対すヴェネツィア戦いは特に海上戦いにおいて数々英雄的物語生み出し、それに感銘受けたキリスト教国からの支援贈られ最終局面ではフランス援軍送りさえした。しかし陸上戦闘におけるオスマン帝国優位揺るぐことが無く1667年から繰り返されオスマン帝国総攻撃前にフランス軍撤退しヴェネツィア司令官フランチェスコ・モロジーニ遂に1669年継戦断念し9月6日クレタ島放棄同意したクレタ戦争決定的とは言えない程度ではあるにせよヴェネツィア大きな財政的人的負担を強い、その結末クレタ島を含む東地中海ヴェネツィア体制終了を公式に告げるものとなった

※この「オスマン帝国の台頭とヴェネツィアの退場」の解説は、「クレタ島の歴史」の解説の一部です。
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