オスマン帝国の廃絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 22:25 UTC 版)
ギリシャ軍の敗走を見て連合国はセーヴル条約を放棄し、ローザンヌで再び講和を行うことを大国民議会と帝国政府に通告した。ケマルらのアンカラ政府は帝国政府を廃絶して自らがトルコ国家を代表する単独の政府となる必要を感じ、1922年11月1日、スルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制のみを廃止することを大国民議会において決議した。こうしてカリフとしてのオスマン帝国の君主を残したまま、世俗政治を行う政府としてのオスマン帝国は滅亡し、最後の皇帝となったメフメト6世は亡命した。帝国政府は祖国解放戦争中に王朝の保全のみを図って占領国の意に迎合し、アンカラ政府を攻撃する布告を行ったりしていたため既にトルコ人の支持を失い、廃止に反対する声もほとんどなかった。 1923年、アンカラ政府は連合国との間にローザンヌ条約を締結し、トルコ国家の独立承認とともに関税自主権回復、治外法権撤廃など不平等な国際関係を廃止することに成功した。一連の成功で救国の英雄としての地位を確実なものとしたケマルは次第に強い指導力を発揮するようになり、同年10月29日、大国民議会に共和制宣言を可決させ、自らは大統領に就任した。 これに対し、強引に共和制宣言を可決させたこと、カリフが国家元首とされなかったことに対する批判が起こったが、ケマルはこれを強権的に押さえ込むと、1924年3月3日にはカリフ制の廃止も可決させた。オスマン家の人間は全て追放され、翌年に起こったカリフの復活を求めるクルド人の反乱(シャイフ・サイードの反乱)も鎮圧した。続いて祖国解放戦争時の独立法定の復活により議会内の反ケマル派が排斥され、専権を得たケマルのもと、新生トルコ共和国はオスマン帝国の残滓を振り払う諸改革に乗り出す。
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