オスマン帝国の反撃の失敗とアドリアノープルの陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 05:06 UTC 版)
「第一次バルカン戦争」の記事における「オスマン帝国の反撃の失敗とアドリアノープルの陥落」の解説
2月20日、オスマン帝国軍は、チャタルジャと南方のガリボリ半島の2方向から反撃を始めた。ガリボリ半島で孤立していた約3万人のオスマン軍のうち約15,000人が、火砲36門に支援されて、南方のボラユル(ガリボリ半島の地峡部の都市)へ出撃。これと同時に第10軍団に属する19,858人と火砲48門がシャルキョイ(en、現テキルダー県の都市)に上陸した。この2つの攻撃は海軍艦艇の支援も受けていた。オスマン帝国側の狙いは、包囲陣に圧力をかけることで間接的にアドリアノープルを助けることにあった。当面の敵兵力は10,000人と火砲78門であった。このほかにこの地域にはブルガリア軍の新編成した第4軍(スティリヤン・コヴァチェフ en将軍)の92,289人が展開していたのであるが、オスマン側は気付いていなかったようである。幅1800mと狭い地峡へのオスマン軍の攻撃は、厚い霧と強力なブルガリア軍の砲撃及び機関銃弾によって阻止された。そして、ブルガリア軍の逆襲により撃退され、その日の終わりには元の位置に戻ることになった。その間にシャルキョイへ上陸したオスマン帝国第10軍は、2月23日(ユリウス暦2月10日)までは前進を続けられたが、ブルガリア軍のコヴァチェフ将軍の送った増援部隊によって阻止された。両軍とも損害は軽かった。ボラユル方面での攻撃が失敗すると、2月24日にオスマン帝国第10軍は元の輸送船へと乗船して、ガリボリ半島へと撤退した。 他方、チャタルジャで行われた、ブルガリア側主力の第1軍及び第3軍に対する反撃は、わずか1個師団のみで開始された。当初の狙いはガリボリ半島・シャルキョイ方面での反攻を支援するため、ブルガリア軍をひきつけることにあった。ところが、この攻撃は思いがけない成功を収めた。戦線の北部でブルガリア軍は15kmも後退させられ、南部では20km以上も押し込まれて第二線陣地への撤退を余儀なくされたのだ。ガリボリ半島方面での反攻が失敗に終わると、オスマン軍はチャタルジャ線を離れるのを嫌って部隊を停止させたのであるが、ブルガリア軍は数日経ってからようやく敵の攻撃が止んだのに気付いた。2月15日までに再び戦線は膠着状態となったが、休戦発効までの間は衝突が続いた。この攻勢は、オスマン軍がブルガリア軍に大損害を与えて戦術的勝利を収めた。もっとも、戦略的にみるとガリボリ半島方面での攻撃は失敗し、アドリアノープルの救援も実現しなかったことから、オスマン帝国軍の敗北と言える。 シャルキョイ-ボラユル方面での反攻の失敗が、アドリアノープルの運命を決めた。3月11日、バルカン同盟軍の最後のアドリアノープル総攻撃(en)が始まった。ゲオルギ・ヴァゾフ (Georgi Vazov)将軍率いるブルガリア第2軍の153,700人と、セルビア軍2個師団計47,275人が、多大な犠牲を払いながらアドリアノープル市街を占領した。同盟軍側の損害は、ブルガリア軍8,093人とセルビア軍1,462人に上った。ブルガリア軍の包囲戦開始以来の総損害は18,282人にも達した。オスマン軍の損害は、包囲戦開始以来で戦死者13,000人で、負傷者数は不明、19,750人が捕虜となった。R.C. HallとE.J. Ericksonによれば、この厖大な死傷者は必ずしも必要ではなかったのではないかという。彼らによると、損害が多数となった原因は主に政治的判断と、フェルディナンド1世たちブルガリアの指導者たちの一部が国家の威信を過度に意識したことにある。もし急がず包囲を続けていても、食糧不足からアドリアノープルはいずれ陥落を免れなかったはずである。この戦いのもたらした最大の影響は、オスマン帝国軍の指揮官たちが、戦争の主導権を手にすることをあきらめたということにある。以後、オスマン軍の戦いぶりは常に精彩を欠くことになった。
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