オスマン帝国の分解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 21:41 UTC 版)
キプロスは紀元前1600年頃から地中海交易都市として発展する。それ以降、ギリシャ人が多く居住していた。その後、1571年にオスマン帝国に占領されると、トルコ人が流入した。 1821年に起きたギリシャ独立戦争で、キプロスはギリシャ側で参戦した。 露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約締結後の1878年5月25日、イギリスはオスマン帝国に対露防衛同盟を提案し、6月4日に二か条から成る秘密協定が結ばれた。この協定により、イギリスはロシア帝国のオスマン帝国アジア領侵略時にオスマン帝国と共に武力で対抗し、見返りとしてオスマン帝国はイギリスへのキプロス島の一時的譲渡に同意した。一方で、イギリスは露土戦争後に生じた状況を自国に有利なように調整するため、5月30日にロシア帝国とも秘密協定を結んでいた。しかし、ベルリン会議において秘密協定が暴露されたため、7月1日にイギリスの働きかけで五か条から成る追加協定が結ばれた。この協定により、ロシア帝国がカルス及び東アナトリアの占領地をオスマン帝国に返還した場合にイギリスがキプロス島をオスマン帝国に返還すること、キプロス島毎年の税収から統治費用を控除した余剰収入22,936ケセ(約92,800スターリングポンド)をイギリスがオスマン帝国に支払うことなどが取り決められた。その後、7月7日にキプロス島の統治権をイギリスに移管する旨の勅令が発布され、7月12日にイギリス軍がキプロス島に上陸した。7月15日の協定批准書の交換式で、イスタンブール駐在イギリス大使ヘンリー・レイヤードは、オスマン帝国スルタンアブデュルハミト2世に対し、キプロス島におけるスルタンの権利と権限に制限が加えられることのない旨の誓約書を手交した。 1879年、オスマン帝国が余剰収入を未払公債の抵当財源に提供することを表明した。そこでイギリスは、1855年保証公債が他の全ての公債に対して優先権をもつこと、したがって同公債保有者こそがキプロス余剰収入に対する先取権をもつことを主張、1881年8月にその専有を通告、それからのキプロス島余剰収入はイングランド銀行に送金されて債権者への利払・償還に充当されることとなった。1879年11月にオスマン帝国は内国債を保有するガラタ銀行家と協定して、外債担保であった六間接税を彼らへ移管してしまっていた。イギリスは外債保有者の陳情を受けて列強各国へ共同干渉を打診したが、ベルリン会議で二枚舌が暴露されたこともあり、1881年12月にオスマン債務管理局が設立されるまで利害調整は難航した。 1882年からイギリスはキプロスの植民地化に着手、ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人らを分断した政策を行なったため、ギリシャ系の人々はギリシャと、トルコ系の人々はトルコとの同化を求めていた。 1914年11月4日イギリスが、第一次世界大戦でオスマン帝国が同盟国側で参戦したのを口実にキプロスの併合を宣言し、1925年に直轄植民地 (en) とした。戦間期には、ギリシャ系キプロス人が独立を望んで植民地政庁を焼き討ちするなどの行為が発生していたが、パレスチナ委任統治が終了したイギリスは中東戦略の要衝としてキプロスを選んでいたため、これを拒否していた。
※この「オスマン帝国の分解」の解説は、「キプロス紛争」の解説の一部です。
「オスマン帝国の分解」を含む「キプロス紛争」の記事については、「キプロス紛争」の概要を参照ください。
- オスマン帝国の分解のページへのリンク