オスマン帝国の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 03:01 UTC 版)
「第二次バルカン戦争」の記事における「オスマン帝国の介入」の解説
ルーマニアの侵攻への抵抗の欠如により、オスマン帝国はブルガリアに割譲した領土への侵攻を決定した。侵攻の主な目標はエディルネ(アドリアノープル)であったが、エディルネの守備軍はヴルコ・ヴェルチェフ(ブルガリア語版)率いるわずか4千人だった。東トラキアを占領していたブルガリア軍の大半はそれ以前にセルビア軍とギリシャ軍による攻撃に対処すべく撤退していた。7月12日、チャタルジャ(英語版)とゲリボルのオスマン駐留軍はエノス=メデア線に到着、20日にはそれを越えてブルガリアに侵攻した。オスマン軍はアフメト・イッゼト・パシャ率いる20万から25万人であり、第1軍(英語版)は線の東端(メデア)に配置され、以降東から西の順に第2(英語版)、第3(英語版)、第4軍(英語版)が続き、うち第4軍はゲリボルに配置されていた。 数で大幅な優勢を有するオスマン軍の進軍に直面したブルガリア軍はバルカン戦争以前の国境線に後退した。エディルネは7月19日に放棄されたが、オスマン軍がすぐに占領しなかったためブルガリア軍は翌20日にそれを再占領した。しかし、オスマン軍の進軍が止まらなかったため、21日に再び放棄され、23日にはオスマン軍が占領した。エディルネは1360年代にムラト1世によって征服され(英語版)ており、1453年にコンスタンティノープルが陥落するまでオスマン帝国の首都だった。戦争大臣エンヴェル・パシャは自身を「2人目のエディルネ征服者」と呼び、威光を示したが、実際にはエディルネへの進撃は抵抗を受けなかった。 オスマン軍はバルカン戦争以前の国境で止まらず、ブルガリア領に侵入した。例えば、騎兵部隊がヤンボルに進軍した。一般市民の間ではルーマニアの進軍よりもオスマン帝国の進軍に恐怖し、その多くが山岳地帯に逃亡した。ブルガリア指導部の間でも運の尽きであると認めた。歴史家のリチャード・ホールは「第一次バルカン戦争に勝つために多くのブルガリア兵士が死んだ東トラキアの戦場が再びオスマン帝国の支配下に置かれた」と述べた。ルーマニア軍と同じく、オスマン軍も戦闘による死傷者は出なかったが、コレラで兵士4千人を失った。オスマン軍は侵攻中でもその後でも東トラキアのブルガリア人に対する残虐行為を行い、ほぼ全員が追放された。これは1918年に出版された『1913年のトラキア・ブルガリア人の破滅(英語版)』で記録されている。 オスマン帝国のトラキアにおける快進撃に抵抗すべく、ロシアはカフカースを越えてオスマン帝国に攻撃すると脅し、黒海艦隊をコンスタンティノープルに派遣したが、これはイギリスの介入を招いてしまった。
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