アガディールへの聖戦とサアド朝の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 08:04 UTC 版)
「サアド朝」の記事における「アガディールへの聖戦とサアド朝の台頭」の解説
1511年、スース地方を支配下に置き、「ザーウィヤ国家」と形容しうるまで成長したサアド勢力は、ムハンマド・イブン・アフマド・カーイムに率いられ、ポルトガル支配下にあった海岸部の港町アガディールに聖戦を挑んだ。その勇戦ぶりは、ポルトガル人を恐怖に陥れ、サアド勢力の威信を高めることとなった。これを契機に群小同胞団の聖者たちは、サアド勢力に付き従い、サアド勢力は、アトラス山脈山中のアッカを手中に収め、ポルトガルに交易の利潤を奪われていた隊商部族はこれを歓迎し、サアド勢力を支持した。カーイムは、1517年に死去したが、子のアフマド・イブン・アアラジュが後を継いだ。この世襲をもってサアド朝の成立とし、アアラジュを初代としている。カーイムの友人であった有力なカーディリー教団の長は、アアラジュのためにフェズのカーディリーヤとの仲介をしたので、隊商部族とともに多くの同胞団の支持を受けたアアラジュは、1525年、マラケシュを占領、翌1526年には、南方のトゥアト地方を制圧、スーダンとの南方貿易を完全に握ることになる。1541年、アガディールを奪回、脅威を感じたポルトガル人は、マラケシュの北西150kmの海岸沿いの町サフィーやアズムムールから引き上げた。以後、サアド朝は、フェズに残るワッタース朝と本格的に対峙する事になるが、ポルトガルに屈服し続けたワッタース朝に余力は残されておらず、1545年、アレジの弟ムハンマド・アッ=シャイフがフェズを急襲すると、ワッタース家は、オスマン帝国のスレイマン1世に救援ないし和睦の仲介を求めるが不調に終わり、1549年、サアド朝勢力は、フェズに入城、ワッタース王を捕らえた。逃亡した王弟アブー・ハサンは、スペイン王フェリペ2世とオスマン帝国の後ろ盾のあるアルジェー海賊(バルバリア海賊)の支援で、1554年、フェズを占領するが、オスマン帝国の介入を嫌った占領地のモロッコ人が謀反したため、同年中にサアド朝にフェズを奪還されることになる。一方、サアド朝の勢力拡大は、他の有力同胞団の嫉妬を生み、一度は和解したフェズのカーディリー教団がワッタース家のアブー・ハサンを支援しようと動いたこともあったため、サアド朝は、有力同胞団や修養所勢力の離間策を図り、首尾よく彼ら同士に内戦させて共倒れさせることに成功した。
※この「アガディールへの聖戦とサアド朝の台頭」の解説は、「サアド朝」の解説の一部です。
「アガディールへの聖戦とサアド朝の台頭」を含む「サアド朝」の記事については、「サアド朝」の概要を参照ください。
- アガディールへの聖戦とサアド朝の台頭のページへのリンク