オスマン帝国のブルガリア支配へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「オスマン帝国のブルガリア支配へ」の解説
1395年のロヴィネの戦い(英語版)の後、オスマンは自国への非協力を理由にイヴァン・シシュマンとブルガリア各地のデスポットを攻撃し、彼らの領土を併合した。イヴァン・シシュマンが投獄された後もイヴァン・スラツィミルが統治するヴィディンはオスマンに忠誠を誓って独立を維持し、ヴィディンはブルガリアの中で唯一独立を保つ勢力となった。 1396年にハンガリー王ジギスムントがニコポリス十字軍を提唱すると、イヴァン・スラツィミルはオスマンへの臣従を破棄して十字軍に参加した。1396年9月25日のニコポリスの戦いでオスマン軍が勝利した後、ヴィディンはオスマン帝国に併合される。イヴァン・スラツィミルはアナトリアに連れ去られ、中世ブルガリアの国家はすべて消滅した。
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