オスマン帝国による再征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:23 UTC 版)
「ヴェネツィア領モレア」の記事における「オスマン帝国による再征服」の解説
1711年にプルート川の戦いでロシア帝国に勝利を収めたオスマン帝国は、ヴェネツィアの度重なる違法行為を理由として1714年12月9日にヴェネツィアに宣戦布告した。大宰相シラーダーリ・ダマト・アリ・パシャ率いる7万人の大軍がイスタンブールを出発し、翌年6月下旬にモレアに侵攻した。モレア総督アレッサンドロ・ボンと軍司令官ジェロニモ・デルフィーノが動かせた軍勢はわずか5000人で、しかもヴェネツィア軍は各地の要塞に散らばっており、オスマン軍の侵攻を止めることが出来なかった。ペロポネソス半島防衛の要であったアクロコリントス砦も激しい砲撃を受けてわずか5日で降伏し、次いでアイギナやアルゴスも占領された。7月20日にパラミディ要塞が陥落し、首都ナフプリオも制圧された。もはや大勢は決し、マニ半島民をはじめとしてモレアの住民は次々にオスマン帝国側に鞍替えした。ヴェネツィアはナヴァリノとコロンを放棄する代わりにモドンを死守しようとしたが、ギリシャ人住民や傭兵が反乱を起こして要塞の戸をオスマン軍のために開いた。8月16日にモレア城が制圧され、9月7日にモネンバシアとキティラ島が降伏、「モレア王国」の全土がオスマン帝国に再征服された。 1718年のパッサロヴィッツ条約でキティラ島だけはヴェネツィアに返還されたが、モレアの大部分は1821年のギリシャ独立戦争までオスマン帝国の支配下にとどまることになった。
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