オスマン帝国による西部の支配
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「アルメニアの歴史」の記事における「オスマン帝国による西部の支配」の解説
詳細は「オスマン帝国のアルメニア人(英語版)」を参照 16世紀初頭には、東アルメニアはガージャール朝の土地となっていたが、一方アナトリア側のアルメニア人地域(いわゆる西アルメニア(英語版))は、ほぼ同時期の1514年に、テュルク系のオスマン帝国によって獲得された。 オスマンの地方行政にはミッレト制が採用されており、これによってアルメニア人には納税義務と引き換えに大幅な自治権が与えられていた。イスタンブール・アルメニア総主教座(英語版)は政治的・宗教的特権を付与され、コンスタンディヌーポリ総主教庁と並び立つオスマン・キリスト教界の事実上の権威となった。1853年からのクリミア戦争では、オスマン軍へ志願して、ロシア軍に所属する同胞とカフカース戦線で戦ったアルメニア人も多くいた。また、帝国造幣局の責任者となったドゥジアン家や、火薬・製鉄・製糸業を一手に担ったダディアン家(トルコ語版)、「帝国の建築士」と称された宮殿建築家のバリアン家(英語版)、オスマン演劇界の創始者となったギュッリュ・アゴプ(英語版)など、西部のイスタンブールやイズミルに住むアルメニア人富裕層の財界・芸術界への進出には著しいものがあった。 その一方で、オスマン社会においてはアルメニア人をはじめとした非ムスリムは通常の司法システムから排除され、武装の権利も認められていなかった。移動の制限やクルド人への援助義務が課せられ、地方官吏による恣意的な徴税や改宗目的での子供の誘拐もまま行われた。これら圧政にさらされたのは、オスマンのアルメニア人の大部分を占める、東アナトリアの農民たちであった。そして、アルメニア人は1860年代からヴァンやゼイトゥン(ロシア語版)、ムシュなどで、支配層に対する散発的な蜂起を開始するようになった。
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