オスマン帝国の北西バルカン進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 07:34 UTC 版)
「オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ征服」の記事における「オスマン帝国の北西バルカン進出」の解説
オスマン帝国は、現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナにあたる地域を数十年、一部は数世紀をかけて征服した。ただそれより以前の14世紀末から、オスマン帝国軍は何度もこの地域に侵入して一帯を荒らしてきた。最初の襲撃は、1384年にティムルタシュ・パシャ率いるオスマン軍がボスニア東部を襲ったものである。1388年、現在のボスニア・ヘルツェゴビナにあたる領域内で初めてオスマン軍とボスニア王国軍が衝突した。このビレチャの戦いはボスニア軍の勝利に終わったが、オスマン帝国はマリツァの戦い (1371年)やコソボの戦い (1389年)などバルカン諸国に対する決定的勝利を積み重ね、ボスニアを追い詰めていった。 1392年、オスマン帝国はかつてのセルビア帝国の首都スコピエを中心としてスコプスコ・クライシュテを設置した。クライシュテ(krajište крајиште、「前線の地」の意)とはもともとセルビア帝国やセルビア専制公国において、近隣敵対勢力の頻繁な襲撃を受け支配が安定しない国境地帯に置かれた行政区画であった。後にボスニアも征服されてから同様の武装領域であるボサンコ・クライシテ (Bosansko Krajište)が設置され、スコピエから統治を受けることになった。
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