クレタ戦争
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クレタ戦争(カンディア戦争)
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「ヴェネツィア領クレタ」の記事における「クレタ戦争(カンディア戦争)」の解説
17世紀に入る頃には東地中海交易におけるヴェネツィアの退潮傾向は明白なものとなっており、海運におけるヴェネツィア人の地位ははっきりと低下していた。この状況は軍事面でも同様であり、地中海における戦争を行うかどうかの主導権はオスマン帝国にあった。 1644年、オスマン帝国の宮廷人を載せた船がマルタ騎士団の襲撃を受け、その戦利品がクレタ島のカネア(ハニア)で売却されるという事件が起きた。オスマン帝国によって17世紀にロードス島から追放された聖ヨハネ騎士団は、その後マルタ島に落ち着き(マルタ騎士団)、「異教徒との戦い」の一環としてオスマン帝国の船団(中には正教徒のギリシア人の船が含まれていたが)に対して海賊行為を行っていた。オスマン帝国のスルタン、イブラーヒームはこの襲撃をヴェネツィアが支援したとしてその責任を問い、翌1645年に350隻からなる大軍でクレタ島を攻撃した(クレタ戦争(英語版)、カンディア戦争とも)。初年にカネアの町が占領されたのに続き、開戦から3年余りのうちにクレタ島のほぼ全域がオスマン帝国に制圧された。 首府カンディアだけがヴェネツィアの手に残され、彼らはこの東地中海における最大かつ最後の重要拠点を守るために膨大な努力を払った。24年間にも及ぶ長期の包囲戦が戦われ、その間に降伏を拒否してサン・テオドーロ城の瓦礫に埋もれて戦死したビアージョ・ジュリアーニや、ダーダネルス海峡封鎖を試みて失敗し最後には敵艦隊の只中に旗艦で切り込んで死亡したトンマーゾ・モロジーニなど、数多の英雄的物語が生み出された。これらはキリスト教諸国に幾ばくかの感動を呼び起こし、ヴェネツィアへの支援が行われたが、その支援は一貫性を欠いており状況を覆すことはなかった。1667年、オスマン帝国軍はカンディアへの総攻撃を開始し、5ヶ月の間に32回の攻撃と618回の坑道爆破が試みられ、ヴェネツィア側に3,000人、オスマン帝国側に20.000人もの戦死者を出した。しかしそれでもカンディアは持ちこたえ、この奮戦を見たフランスがクレタ島へ援軍を送り込んだ。表向き、フランスはオスマン帝国との間に同盟関係があったため、フランス軍は教皇旗を掲げ、激しく戦ったが大きな損失を出し、最後には撤退に追い込まれた。1669年、フランス軍の撤退の後、ヴェネツィアの司令官フランチェスコ・モロジーニは遂に継戦を断念し、9月6日にオスマン帝国に降った。こうしてクレタ島はオスマン帝国の手に落ち、ヴェネツィアによるクレタ支配は終焉を迎えた。クレタ島の失陥は政治的・軍事的に大きな意味を持ち、東地中海におけるヴェネツィア体制の完全な終了を象徴するものであった。
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