クレタ島征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 16:34 UTC 版)
「イスラーム期のクレタ」の記事における「クレタ島征服」の解説
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} コンスタンティノープル トリポリ アレクサンドリア コルドバ イラクリオン ダミエッタ フェズ キオス島 クレタ島のアンダルス人に関係する地中海の都市 9世紀前半から961年3月までの130年間ほどの間、クレタ島を支配したムスリムの政権が、いつごろどのようにクレタ島を征服したか、さらに、征服の主体となった彼らがどのような人々であったのかという問題については、史料が不十分であるため明らかになっていない。征服の始期については、ビザンツ側の史料に基づくと、ビザンツ皇帝ミカエル2世(在位:820年-829年)の治世後半のある時点であるのはたしかである。 上記クレタ島征服の主体は、マクリーズィーによる年代記の記述などを根拠に、伝統的に、アブー・ハフスという人物に率いられ、イベリア半島からやってきたムスリムの集団(Spanish Muslim, Spanish Arabs, Andalucians; 以下では al-Andalusī を意味することを意図して「アンダルス人」と呼ぶ。)であると考えられている。マクリーズィーによると、アブー・ハフスに率いられたアンダルス人は、長い流浪の歴史をもっており、もともとは818年に勃発した後ウマイヤ朝アミール・ハカム1世への反乱(カタルーニャ語版)後の弾圧を生き延びたラバドの住民であるという。その後、流民の流入と流出を繰り返して一万人以上の集団を形成し、処々で寇掠を繰り返しながらアッバース朝支配下のエジプト・アレクサンドリアに上陸した。その後、彼らはイブン・ターヒル(英語版)により包囲されてアレクサンドリアから追い出され、クレタ島に向かったとされる。 しかし、W. Kubiakが指摘するように、彼らが後ウマイヤ朝(コルドバ)に起源をもつという説は別の史料と矛盾しているように見受けられる。別の史料では、アンダルス人の海賊たちは798/9年初頭にアレクサンドリアに現れ、この都市の支配を手にしたのが814年であるという。付け加えて、W. Kubiakは、このアンダルス人たちの指導者アブー・ハフスの出身地ファフスル・バッルート(Faḥṣ al-Ballūṭ)はコルドバから離れた場所にあると指摘している。 このアンダルス人たちの一団がクレタ島に上陸した正確な時期は不明である。後のムスリムの記録ではそれは通常827年から828年、アレクサンドリアから彼らが追放された後のこととされている。しかし、ビザンツ側の記録はこれと矛盾しているように見え、彼らの上陸をスラヴ人トマスの大規模な反乱(821年-823年)の鎮圧直後のこととしている。クレタ島への侵略に対するビザンツ軍の反撃の兵力と年代についての更なる考察と、この軍隊を率いるビザンツの将軍たちについてのプロソポグラフィ(人物調査)における疑問によって、Vassilios ChristidesやChristos Makrypouliasのような学者は824年頃という早い年代を提案した。信頼されているイブン・ターヒル(Ibn Tahir)の記録によれば、クレタ島に家族ごと移動したアンダルス人たちは40隻の船でアレクサンドリアを去った。歴史学者ワーレン・トレッドゴールド(英語版)は彼らの人数を総数約12,000人、そのうちおよそ3,000人が戦闘に参加可能な男性であったと見積もっている。ビザンツ帝国の歴史家によれば、このアンダルス人たちは過去にクレタ島を襲撃したことがあり、既に島について良く知っていた。ビザンツの歴史家はまた、このアンダルス人ムスリムたちの上陸は最初は略奪を目的としていたが、指導者アブー・ハフスが彼ら自身の船を焼いた後、征服の試みに変わったと主張している。もっとも、彼らが家族を帯同していたことから、この説は恐らく後世に創り出されたものであろう。 アンダルス人たちがクレタの征服をどのように進めたのかという点についても詳細は不明である。スーダ湾(英語版)か現在のイラクリオンあたりの北岸から侵入を開始したとよく言われているが有力な根拠に基づくものではなく、まず人口希薄な南岸に上陸して、その後、人口稠密な内陸及び北岸に移動したという説を述べる学者もいる。ところでイラクリオンは当時まだ存在しない。イラクリオンはムスリムによるクレタ征服時代に建設された街であり、正確な建設時期は不明だが、南岸征服が先とする説によると、次に述べるミカエル2世によるクレタ奪回の試みの後かもしれない。 ミカエル2世はアンダルス人のクレタ島上陸を知るとすぐに、彼らが島全体の支配を確保するよりも前に対応を始め、島を奪回するために相次いで遠征軍を送った。スラヴ人トマスの反乱の間に生じた損害はビザンツ帝国の対応能力を低下させており、もしもアンダルス人のクレタ島上陸が827/828年のことであったならば、徐々に進行していたチュニジアのアグラブ朝によるシチリアの征服(英語版)に対応するための軍艦と人員の転用もクレタ島の問題への対応を妨げたであろう。ビザンツ帝国のテマ・アナトリコイのストラテゴス(strategos)、フォテイノス(英語版)とコメス・スタブリ(英語版)のダミアノス(Damian)の指揮による最初の奪回遠征はビザンツ軍が野戦で敗れ、ダミアノスが戦死した。2回目の遠征隊はテマ・キビュライオタイ(英語版)のストラテゴス、クラテロス(英語版)の指揮する70隻の軍艦と共に翌年に派遣された。この遠征軍は当初勝利を収めたが、慢心に陥ったビザンツ軍は夜襲を受けた。クラテロスはコス島に逃走したが、そこでアラブ人に囚われ十字架にかけられた。
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