スーダ
スーダ辞典
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『スーダ辞典』(スーダじてん)または『スーダ』(ギリシア語: Σοῦδα, Souda; Suda)は、10世紀ころ、東ローマ帝国で編纂された百科事典も兼ねる辞書である[1]。古代から当代の歴史に関わる約3万語を収録しており、東ローマ帝国の公用語であったギリシア語で記されている。
題名の「スーダ」は「砦」を意味する名詞である[1]。しかしながら、東ローマ帝国末期およびルネサンス期から20世紀前半に至るまで、人名に由来すると誤解されてスイダス(Σουίδας)という題名で伝えられてきた[1]。
概要
その項目の豊富さから、現代の西洋古典学・古代ギリシア研究においても頻繁に参照される。1928年デンマークの学者アダ・アドラーが編修した刊本は、全5巻・約2700ページもの量に及ぶ[1]。2014年には、インターネット上での電子化が完遂され、訳注も施されている[2]。
誤った内容の項目も多いが、散逸した文献からの引用も多く、資料としての価値が高い[1]。項目はアルファベット順になっているが、同音で異なる文字が同じ箇所に入れてあるなど多少揺れがある。スーダの根幹をなす項目として、豊富な人物項目があり、それらの人物項目は6世紀の伝記作家ミレトスのヘシュキオスに基づくとされる[1]。
成立
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10世紀のマケドニア朝治下の東ローマ帝国では、後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる古代ギリシア文化の復興が進み、皇帝コンスタンティノス7世の下では国家事業として古代の文献の収集・整理が行われていた。このスーダもその文化的興隆の中から生まれたものである。編纂者は複数の無名の学者とされる[1]。
成立年代は10世紀後半と推定される。その理由としては、12世紀のエウスタティオスの書物にスーダの引用が見られること、「当代の」大主教ポリュエウクトス(在位956-970)への批評が出てくること[1]、アダムの項目で書かれている年代記がヨハネス1世ツィミスケスの死亡(975年)で終わっていること[1]、バシレイオス2世・コンスタンティノス8世の言及があることなどによる。なお、11世紀のミカエル・プセルロスに関する語句も見られるが後代の挿入とされる。
関連項目
出典
- ^ a b c d e f g h i ジョナサン・グリーン 著、三川基好 訳『辞書の世界史』朝日出版社、1999年、62-64頁。ISBN 978-4022573841。
- ^ “Stoa | Welcome to the Suda On Line (SOL)”. www.cs.uky.edu. 2020年10月23日閲覧。
外部リンク
- オンラインスーダ辞典 (英語)
「スーダ」の例文・使い方・用例・文例
- 政府はスーダンの人権状況への関心を高めるために尽力してきた団体を黙らせることに懸命になっているようだ。
- サハラ砂漠は地中海沿岸から南はスーダン地方にまで及んでいる.
- スーダン.
- キッチナー率いる英国軍とエジプト軍がスーダン人を破った戦い(1898年)
- 彼女は、スーダンで救済活動を行っている
- アフリカのスーダン共和国またはその国民の、アフリカのスーダン共和国またはその国民に関する、あるいは、アフリカのスーダン共和国またはその国民に特徴的な
- スーダンの砂漠
- スーダン南部の比較的狭いコルドファン地域で話されている言語
- スーダン、ザイール、ウガンダとタンザニアの一部で話されるナイル・サハラ語族の群
- ナイル川沿いのアフリカ北東部(エジプト南部およびスーダン北部)の古代の地域
- スーダン西部の貧困地域
- スーダン中部の山の多い州
- 青ナイル川と白ナイル川の合流点にあるスーダンの首都
- スーダンの都市
- 紅海のスーダンにある港町
- リビア、エジプトとスーダンのサハラ砂漠の北東部
- ナイルと紅海の間の北東スーダンの不毛の岩石の高原
- スーダンの出身者、または、居住者
- 非常に大きく柔らかい白の穀粒を持つ、スーダンのモロコシ
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