1711年の戦闘とは? わかりやすく解説

1711年の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 06:40 UTC 版)

プルート川の戦い」の記事における「1711年の戦闘」の解説

オスマン帝国の参戦ピョートル1世攻撃目標を西のスウェーデンドイツから南のオスマン帝国変更オスマン帝国属国であるモルダヴィアディミトリエ・カンテミールワラキアコンスタンティン・ブルンコヴェアヌ嗾け反乱ロシア援助取り付けた。しかし、ポーランドスウェーデン領ポメラニアから戻したロシア軍ドニエストル川右岸ソロキの配置編成順調に進まず6月にやっとソロキを出発したが、猛暑行軍兵士士気低下モルダヴィア食糧徴発上手くいかずワラキアからの連絡無かったモルダヴィアヤッシー開かれた作戦会議前途危ぶむ声が上がり撤退取り沙汰されたが、ピョートル1世モルダヴィア支援当てにして前進続けた戦争での主な軍事衝突は、1711年準備不足のまま行われたプルト川での戦闘だった。その最中のスタニレシティの戦い7月18日-)において、ピョートル1世とボリス・シェレメーテフの指揮下のロシア軍は、ディミトリエ・カンテミールモルダヴィア侵略させようとしたが、オスマン軍包囲されてしまい、大宰相バルタジ・メフメト・パシャ率いオスマン軍によって破られた。しかし、ロシア軍別働隊ヤッシーから本隊分かれて迂回7月14日オスマン帝国軍食糧貯蔵庫であるブライラ占拠した他、7月19日ロシア軍本隊オスマン帝国軍集中砲火浴びせて7000人以上の大損害を与え反撃怯んだイェニチェリ戦闘控え和睦主張するうになると、オスマン帝国主戦派のポニャトフスキらの反対押し切りロシア和睦結んだカール12世オスマン帝国ロシアを更に叩くことを望んだが、その期待7月21日プルト条約締結によって失望終わったロシア軍別働隊補給路を抑えられていたため、オスマン帝国としては一刻も早く和睦を結ぶ必要性迫られていたのである勝敗の鍵を握っていた占拠報告先にオスマン帝国押さえられアゾフ奪還及びクリミア・ハン国ロシア国境要塞破壊目的として積極的に戦う意志がないオスマン帝国は、戦闘継続より外交解決する道を選びロシアとの交渉動いた条約の内容は、オスマン帝国へのアゾフ返還タガンログはじめとするロシア要塞破棄カール12世スウェーデン帰還妨害しないこと、イスタンブールロシア大使廃止ロシアポーランドへの内政不干渉などであったピョートル1世条約締結後すぐに北へ引き上げブライラ占拠していた別働隊ピョートル1世命令受け取りブライラオスマン帝国返還し戦場を後にした。両軍の損害ロシア軍は4800人、オスマン帝国軍8900人とされている。

※この「1711年の戦闘」の解説は、「プルート川の戦い」の解説の一部です。
「1711年の戦闘」を含む「プルート川の戦い」の記事については、「プルート川の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1711年の戦闘」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1711年の戦闘」の関連用語

1711年の戦闘のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1711年の戦闘のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのプルート川の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS