スイス内乱をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)
「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「スイス内乱をめぐって」の解説
ウィーン体制下でスイスは列強諸国から永世中立国と認められ、神聖同盟三国の弾圧を受けて逃れてきた自由主義者やナショナリストの避難場所になっていた。スイスは連邦国家であり、25のカントンと半カントンで構成されていた。カントンごとに政治体制が異なり、概して工業地域のカントンは自由主義的・プロテスタント的であり、農村地域は保守的・カトリック的だった。 自由主義の風潮が強まる中、保守的・カトリック的なカントンは危機感を強め、これらのカントンは1845年に「分離同盟 (Sonderbund)」を結成した。しかし1846年にはジュネーブで急進派が革命に成功し、さらに1847年には盟約者団会議(スイス連邦政府)が分離同盟に対して同盟解散とカトリック保守派の代表格イエズス会士を追放するよう要求した。分離同盟がこれを拒否すると盟約者会議は武力制裁を決議し、スイスは1847年11月に分離同盟戦争と呼ばれる内乱に突入した。 農村が中心の分離同盟に勝ち目は薄く、分離同盟は同じカトリック保守のオーストリア帝国に援助を要請した。オーストリア宰相メッテルニヒはこれを了承し、スイス内乱の調停のためのウィーン会議の開催を目指した。またフランス7月王政もこの頃には国内の自由主義者の革命を警戒してだいぶカトリック保守化していたため、メッテルニヒを支持した。これに対してパーマストン子爵は反分離同盟的な態度を示してロンドンでの国際会議を提唱したが、サルデーニャ王国やプロイセン王国も分離同盟寄りの態度をとってロンドンでの会議に反対したため、パーマストン子爵は孤立してしまった。当のスイス政府も国際会議にかけられること自体に乗り気ではなかった。 スイスの内乱は1847年のうちに自由主義政府の勝利に終わり、またその翌年にはフランスやオーストリアなどに1848年革命が発生し、各国ともスイスどころではなくなったため、この問題は収束していった。
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