分離同盟戦争
分離同盟戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:05 UTC 版)
1840年代、スイスはジュネーヴやチューリヒ、ベルンなどの自由主義カントンと原初3州やルツェルンなどの保守派カントンの間で内紛が続き、分裂の危機にあった。優勢な自由主義カントンに対し、保守派7カントンは1845年1月、保護同盟を結成し、スイス盟約者団内に国家内国家が形成されることとなった。1847年10月、自由主義派で占められる盟約者団会議は、保護同盟(分離同盟)に対し軍事的行動に出ることを視野に入れ、デュフールをスイス史上初の将軍に任命し、軍事の全権を委任した。1847年11月4日、ついに両派の間に戦端が開かれた。分離同盟戦争である。 デュフールはフランスやオーストリアなど近隣大国の干渉を防ぐためにすばやく戦争を決着させることを決め、各カントンを各個撃破していった。まずヴァリスを封鎖した後、11月14日フリブールを落とし、21日にはツークを占領、24日にはルツェルンを陥落させ、12月1日に開戦後わずか26日間で分離同盟全カントンを降伏させた。この戦いの際、デュフールは負傷者を自軍に収容し治療を施した。この戦いにおいて死者は両軍合わせて130人、負傷者も400人程度に抑えられた。なお、これまでスイス軍の兵士は自らの所属カントンの旗や白い十字を徽章として用いていたが、デュフールはそのうちの白い十字を採用し、軍の旗とした。これが戦後、スイス国旗として採用された。
※この「分離同盟戦争」の解説は、「アンリ・デュフール」の解説の一部です。
「分離同盟戦争」を含む「アンリ・デュフール」の記事については、「アンリ・デュフール」の概要を参照ください。
- 分離同盟戦争のページへのリンク