分離同盟戦争
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分離同盟戦争(ぶんりどうめいせんそう、独:Sonderbundskrieg, 英:Sonderbund War)は、1847年11月4日から11月29日にかけてスイスで起きた内戦。1848年革命に影響を与えた。
概要
もともとスイスは自由化、民主化が進んでいたが、一部のカントンはカトリックの影響が強く、自由化を拒んでいた。自由化や民主化に対抗するため、1845年12月、保守派の7カントン(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ルツェルン、ツーク、フリブール、ヴァリス)が「保護同盟」を結んだ。
自由主義派はこれを盟約者団を分離せしめる存在「分離同盟」と見なし、翌1846年8月の盟約者団会議で解散を要求した。しかし、分離同盟はこれを拒否し、解散勧告議決も2票足らず、スイス域内に国家が2つある状態が続いた。
ところが10月、ジュネーヴで自由派の革命がおこり、新しい憲法が翌年住民投票で承認された。また、ザンクト・ガレンでも選挙で自由派が保守派に勝利し、盟約者団会議で自由派が過半数を占めるようになった。
1847年7月の盟約者団会議で分離同盟の解散、イエズス会修道士をスイスから追放を決めた。分離同盟解散に反対したのは9カントンだけであった。
「分離同盟」が解散を拒否したので同年10月、盟約者団はアンリ・デュフール将軍(1787年 - 1875年)を司令官に任命し、軍事行動に出た。
盟約者団はスイス人口の75%、財源比の90%を占めており、「分離同盟」が敗北することは明らかであった。そのため「分離同盟」は隣国のフランス、オーストリアなどからの援助を期待したが、実現しなかった。
しかし、フランスやオーストリアも「分離同盟」を見捨てたわけではない。フランスやオーストリアも列強と会議を開いて軍事介入を試みたのだがイギリスが積極的介入に否定的だった。そのため会議は延びに延びた上、スイスの内戦も1月足らずで終息したので、介入することはできなかったのである。
この内戦は盟約者団の圧勝に終わり、分離同盟は解散された。戦死者は両軍併せて130人程度、負傷者は400人程度であった。
戦後
1848年に入り、イギリスを除いた列強はスイスに介入しようとした。列強は、盟約者団の勝利に自国の自由派が影響されることを恐れていたのである。そのため、スイスの永世中立を名目に介入を試みた。
しかし、2月にフランスで革命が勃発。さらに3月になってドイツ(ドイツにおける1848年革命)やオーストリア(オーストリア帝国における1848年革命)で革命が起こると、列強はそれどころではなくなり、スイスは軍事介入を免れた。
スイスでは連邦国家を目指し、急ピッチで体制作りが行われた。4月には第一次憲法草案が提出され、9月に1848年憲法が発効した。この憲法は現在のスイスにも継続されている。
参考文献
- 森田安一『物語 スイスの歴史 : 知恵ある孤高の小国』中央公論新社〈中公新書〉、2000年7月25日。ISBN 4-12-101546-0。
分離同盟戦争
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1840年代、スイスはジュネーヴやチューリヒ、ベルンなどの自由主義カントンと原初3州やルツェルンなどの保守派カントンの間で内紛が続き、分裂の危機にあった。優勢な自由主義カントンに対し、保守派7カントンは1845年1月、保護同盟を結成し、スイス盟約者団内に国家内国家が形成されることとなった。1847年10月、自由主義派で占められる盟約者団会議は、保護同盟(分離同盟)に対し軍事的行動に出ることを視野に入れ、デュフールをスイス史上初の将軍に任命し、軍事の全権を委任した。1847年11月4日、ついに両派の間に戦端が開かれた。分離同盟戦争である。 デュフールはフランスやオーストリアなど近隣大国の干渉を防ぐためにすばやく戦争を決着させることを決め、各カントンを各個撃破していった。まずヴァリスを封鎖した後、11月14日フリブールを落とし、21日にはツークを占領、24日にはルツェルンを陥落させ、12月1日に開戦後わずか26日間で分離同盟全カントンを降伏させた。この戦いの際、デュフールは負傷者を自軍に収容し治療を施した。この戦いにおいて死者は両軍合わせて130人、負傷者も400人程度に抑えられた。なお、これまでスイス軍の兵士は自らの所属カントンの旗や白い十字を徽章として用いていたが、デュフールはそのうちの白い十字を採用し、軍の旗とした。これが戦後、スイス国旗として採用された。
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