スイス連邦の成立(1848年-1914年)
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1847年、カトリック諸州とプロテスタント諸州の緊張状態が紛争に発展した。自由主義の気運の高まりと進展に危機感を抱いたカトリック諸州が同盟規約を保護する同盟を結び(1845年)、盟約者団が同盟の解散を命じたため、争いになったのである。紛争は1ヶ月続き、100名あまりの犠牲者が出た(「分離同盟戦争」)。ユグノーによるスイス支配体制の確立は「1848年革命」へと発展し、ウィーン体制が事実上崩壊した。そしてフランスがスイスに対する影響力をつけていった。 内戦の結果、1848年に連邦制度が採択された。各州の代表からなる連邦議会が防衛、通商、憲法に関する事項を扱い、それ以外は全て各カントンに委ねられた。このとき出来たスイス連邦の基本的な枠組みは、現代まで維持されている。 従来フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン国王とヌーシャテル侯をかねていたが、1848年の革命でヌーシャテルが奇襲により共和国となった。1856年、ヌーシャテルで王党派の反革命運動がおこり指導者が断罪された。プロイセン王国は彼らを見殺しにできず派兵した。ナポレオン3世の仲裁で、ヌーシャテルは共和制を維持するかわりに王党派を逃がした。この年、クレディ・スイスが創業した。1860年サヴォワがイタリア統一の駆け引きによりフランスへ移譲された。これをスイスは阻止できなかった。1862年、スイス・ユニオン銀行(現UBS)が創業した。1864年、赤十字を創設した。1865年、ラテン通貨同盟と万国電信連合に参加した。普仏戦争においては中立維持のため全軍を総動員したが、その経費を削るため大部分の動員を解かなくてはならなくなった。このときフランス軍がドイツ軍に押されて国境を侵犯し、この疲弊した部隊8万7千人をスイスが保護した。 ドイツもスイスをめぐる外交で巻き返しを見せた。1874年、スイスを万国郵便連合に加盟させたのである。1882年ドイツは三国同盟を編み上げ、スイスを地理的に包摂する構えをとった。三国同盟のドイツとイタリアに挟まれて、スイスは鉄道政策をめぐる緊張状態におかれた。ゴッタルド鉄道トンネルの敷設をバスラー銀行(現UBS)などが支援した。
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