連邦議会の形成と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/08 03:40 UTC 版)
「アロイス・フォン・レディンク」の記事における「連邦議会の形成と失脚」の解説
ヴァルトシュタッテン州の成立後間もなく、ヘルヴェティア共和国に忠誠を誓ったスイス人は、フランスによるカトリックの強制によって不満を募らせ、1798年から暴力的な抗争が頻発した。これに対してフランス、オーストリア、ロシアの各軍は活発に動き、スイスはすぐに戦場となったが、フランス軍は兵站が開きすぎて暴動を制御できなくなり、ヘルヴェティア共和国は崩壊し始めた。ナポレオンは、ナポレオン調停法によりスイス連邦復活に追い込まれた。 アロイスは、連邦派の支援もあり、復興スイス連邦の立法および行政の府としての連邦議会を組織した。議会は、再興された各州の長老代議士たちによって大多数が占められた。復興連邦は、各州の主権と封建制を廃止することを主張する共和派の反対に晒され続けた。共和派との和平を確立するため、復興連邦は共和派に対して信条を表明する自由を認め、政策も譲歩したが、それにもかかわらず連邦と共和派の間の不信と抗争が継続した。 ナポレオンと復興連邦の間を取り持っていたフランスのタレーランは、復興連邦の凋落に大きな役割を果たした。タレーランは、戦時国債を減らすために、市中に出回る貨幣を減らす施策を採り、10万英ポンドを25万3千フランで貸し出したが、これは当時の為替交換価のほぼ半額であった。タレーランは、復興連邦と共和派の和平が一旦確立すれば、アロイスが権力の座についた時に10万英ポンドの借用金を実際のポンド・フラン交換価で再交換しやすくなり、流通するフランの金額を2倍にできると考えたのである。 しかし、流通している貨幣が不足したので常軌を逸した需要が生じ、スイス国民はポンドでのフラン返済を要求し始めた。これによって復興連邦と共和派の関係はさらに悪化した。アロイスが権力の座につく時に連邦の財務大臣になると考えられていたドルダー(Dolder)は、ナポレオンの代理人であるヴェルナナック(Vernanac)の側につき、アロイスと袂を分かったため、アロイスは失脚することになった。復興連邦は共和派との衝突を止めることができず、1848年の憲法制定によるスイス連邦の成立まで続くこととなった。
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