オスマン帝国海軍提督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 13:32 UTC 版)
「セルマン・レイス」の記事における「オスマン帝国海軍提督」の解説
1524年、パルガル・イブラヒム・パシャのエジプト赴任に伴い、セルマン・レイスも軍務に復帰した。 彼は当時のインド洋の状況について詳細な報告を行った。エチオピア、イエメン、アフリカ南東部スワヒリ海岸(英語版)といった地域の占領と、ホルムズ、ゴア、マラッカからのポルトガルの放逐を提案した。1525年、ポルトガル艦隊が紅海を襲撃したことで、彼らの脅威がエジプトに近づいていることが明らかになった。 1525年、セルマン・レイスは合計299門の大砲を備えた、18隻からなるオスマン帝国艦隊を指揮する提督となった。船は放置されていたジェッダ艦隊から回収されてスエズで改修された 。 約4,000の歩兵を率いるハイレッディン・アル=ルーミと彼は協力して任に当たった。彼らは1526年にスエズを出発し、最初にジェッダを回復した。1527年1月にモカに上陸した後、彼らはイエメンの内陸部へ遠征軍を率いて進み、ムスタファ・ベグを斬首してこの地域の征服に成功した。アデンは独立したままだったが、オスマン帝国の宗主権を認めた。その後、艦隊はカマラン島に海軍基地を設立するために出発した。 これにより、オスマン帝国は紅海の制海権を取り戻し、ポルトガルは1527年には紅海に艦隊を送りこめなくなった。 これらの成功に続いて、インド洋の様々な戦力がポルトガルに対抗するため、オスマン帝国の助けを求めてきた。1527年にはホルムズの太守と、カリカットのザモリンから来た。 1528年までに、オスマン傭兵は遠くスマトラへと向かうイスラム教徒の船にまで乗っていた。 しかしその後、セルマン・レイスがハイレッディン・アル=ルーミとの対立状態に陥ったことで、これらの努力は大幅に弱体化した。 セルマン・レイスは後に、ポルトガルおよびヒンドゥー教国の同盟に対抗して、インドのムスリム勢力を援護した。
※この「オスマン帝国海軍提督」の解説は、「セルマン・レイス」の解説の一部です。
「オスマン帝国海軍提督」を含む「セルマン・レイス」の記事については、「セルマン・レイス」の概要を参照ください。
- オスマン帝国海軍提督のページへのリンク