オスマン帝国軍の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 22:56 UTC 版)
「オトラントの戦い」の記事における「オスマン帝国軍の侵攻」の解説
1480年7月28日、70~200隻のオスマン艦隊がイタリア半島南端部オトラント前面に布陣した。おそらくこれらの軍はロドス島から移動してきたと思われる。翌日には守備隊と住民は市街地を放棄し、市の城塞に退却したが防備はお粗末なもので大砲すら一門もなかった。オスマン帝国軍は8月11日に砲撃の支援を受けながら総攻撃を敢行、オトラントは落城した。 陥落後の市内では徹底した略奪が行なわれ、生き残った男性市民は奴隷としてアルバニアへ送られた。オトラント大主教ステファノ・アグリコリら主だった聖職者たちは大聖堂で殺され、ステフェン・ペンディネッリ司教と守備隊長フランチェスコ・ラルゴ伯に至っては生きたままのこぎりで両断された。 大聖堂はモスクとされた。
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