オスマン帝国統治時代・ブルガリア解放期以降
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「ロム (ブルガリア)」の記事における「オスマン帝国統治時代・ブルガリア解放期以降」の解説
ロム・パランカ(Lom Palanka)の名は1704年に初めて言及されている。それまでこの町は単にパランカと呼ばれていた。1798年、ロムは山賊による襲撃を受けた。1830年以降、ドナウ川交易が発達すると、ロムの重要性は次第に高まっていった。ソフィアに通じる道はロムの発展に寄与し、やがてオーストリアのウィーンとブルガリアを結ぶ主要ルートとなった。1869年、ロムには120の店舗、148の交易所、175の食料品店、34のカフェ・バー、6のホテル、2の製粉所があった。町は、かつての要塞カレ(Kale)を中心に広がり、3つの城門(kapii)を持っていた。3つの城門はそれぞれ、ヴィディンスカ(Видинска / Vidinska)、ベログラトチシュカ(Белоградчишка / Belogradchishka)、ソフィイスカ(Софийска / Sofiyska)と呼ばれた。ロムの交易商らは、この地域でもっとも多くの物品を売買した。1800年、町には7,500人の住民がいた。 ロムは、ブルガリア民族復興期において、重要な役割を果たしていた。1856年、ロムにはブルガリアで初のチタリシテ(Читалище / chitalishte)が誕生した。1858年には、ブルガリアで初の婦人会が作られた。演劇が行われるようになった古くからの町でもある。 第二次世界大戦まで、ロムは重要な交易の町であった。1944年以降は、工業化が進められ、砂糖や缶、製粉などの製造が行われた。また、ブルガリア北西部の拠点の港でもあった。
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