オスマン帝国時代のカーバードとマムレト・エル・アジズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 15:47 UTC 版)
「エラズー」の記事における「オスマン帝国時代のカーバードとマムレト・エル・アジズ」の解説
カーバードとその近郊は、1071年8月のマラズギルトの戦いの結果、トルコの支配下に置かれた。 その地域の勢力はめまぐるしく入れ替わり、チュブコグラリ侯国 (Çubukoğulları)、アルトゥク朝、ルーム・セルジューク朝、イルハン朝、ドゥルカディル侯国 (Dulkadir)、白羊朝、サファヴィー朝およびオスマン帝国が君臨した。 アメリカのキリスト教宣教の拠点として重視され、神学校のユーフラテス大学 (en) と一般の少年少女向けの学校を建設する。1895年11月、トルコ人とクルド人は政府の後ろ盾により、平野部に暮らすアルメニア人の村々を焼き討ちし虐殺と略奪が横行すると、同月、カーバードの町も攻撃を受け、アメリカの学校が全焼。アルメニア人虐殺の際にカーバード住民も多数、命を落とす。 カーバードには現在も居住者がいるが、標高が高く水が得にくいため、徐々に人口は減っており、多くの住人がエラズーに移住している。現在のカーバードの人口は数千人である。
※この「オスマン帝国時代のカーバードとマムレト・エル・アジズ」の解説は、「エラズー」の解説の一部です。
「オスマン帝国時代のカーバードとマムレト・エル・アジズ」を含む「エラズー」の記事については、「エラズー」の概要を参照ください。
- オスマン帝国時代のカーバードとマムレト・エル・アジズのページへのリンク