1980年 - 1983年
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1980年2月、アイルランド国内でシングル「アナザー・デイ」(Another Day)を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「11オクロック・ティック・タック」(11 O'Clock Tick-Tock)でデビュー。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1枚目のアルバム『ボーイ』(Boy)を発表。 1981年に2枚目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、1983年に3枚目のアルバム『WAR(闘)』(War)を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」(New Year's Day)はポーランド民主化運動の独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲で、バンド初の全英シングルチャートトップ10入りとなった。「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の全英アルバムチャート1位を獲得し、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気はイギリスやヨーロッパ大陸のみならず、アメリカへと拡大した。 アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。 社会問題や宗教観をストレートに表現する音楽スタイルは、当時のポストパンク(ニュー・ウェイヴ)と呼ばれた世代の中で異彩を放っていた。この初期3作品のディスクジャケットには、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン)の写真が使用されている。
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1980年~1983年
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1980年3月14日発売の『オン・スルー・ザ・ナイト』 (On Through the Night) でレコードデビュー。同作は全英チャートで15位を記録し、幸先の良いスタートを切る。 1981年7月11日には、2作目となる『ハイ&ドライ』 (High 'n' Dry) をリリースする。AC/DCなどを手がけたロバート・ジョン・マット・ランジ(Robert John "Mutt" Lange)がプロデュースを担当し、同作は全英アルバムチャートの26位、また全米アルバムチャートの36位を記録し、ゴールドディスクに輝く(のちにアメリカでは200万枚を売り上げる)。ヨーロッパ・ツアーではオジー・オズボーン、ブラックフットのオープニングアクトを務めた。 翌年1982年7月、飲酒問題でバンドを解雇されたウィリスの後任として、元ガール(Girl)のフィル・コリンが加入する。 1983年1月20日には、3作目の『炎のターゲット』 (Pyromania) をリリース。同アルバムからシングルカットされた「フォトグラフ」はMTVのリクエスト放送でマイケル・ジャクソンの「今夜はビート・イット」を超える支持を集め、全米シングルチャートで12位を記録するヒットとなった。続く「ロック・オブ・エイジ」、「フーリン」もヒットし、アルバムは年末までに600万枚を売り上げ、全米チャートではマイケル・ジャクソンの『スリラー』に次ぐ最高2位を獲得した(のちにアメリカではRIAAによりダイアモンドディスクに認定されている)。 3月にはビリー・スクワイアをオープニングアクトに迎えて、ツアーを開始し、9月にはカリフォルニア州サンディエゴのジャック・マーフィー・スタジアムに5万5千人を集めた。
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