冷戦の終結とソ連の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「現代の世界の一体化」の記事における「冷戦の終結とソ連の崩壊」の解説
詳細は「ベルリンの壁崩壊」、「マルタ会談」、および「ソビエト連邦の崩壊」を参照 オイル・ショック後のソ連は、西側での急激な技術革新にも的確に対応することができず、軍需産業が突出する不健全な経済、国民の自由が認められない政治体制などの諸矛盾が蓄積されていった。とくに1979年のアフガニスタン侵攻ではソ連社会の動揺を示し、1985年に就任したミハイル・ゴルバチョフ書記長はペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)の推進が始まると冷戦構造は徐々に終焉を遂げていった。ゴルバチョフ書記長はペレストロイカとグラスノスチの推進のため大統領制を採用したが、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故ではソ連の体制の行き詰まりがさらに露呈されることとなった。 1989年にソ連は東欧諸国の内政に干渉しないと表明し、ポーランドではレフ・ヴァウェンサが連帯を組織し、合法化に成功した(ポーランド民主化運動)。8月にはハンガリーとオーストリアの国境が開放され(汎ヨーロッパ・ピクニック)、11月には東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が市民によって破壊され、ビロード革命などソ連の衛星国だった各国でも東欧革命が起こった。12月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領が地中海のマルタで会談して冷戦の終結を宣言した。1991年、ソ連8月クーデターが失敗し、バルト3国が独立を宣言、同年、ボリス・エリツィン大統領が指揮するロシア連邦が成立してソ連は崩壊し、15の独立国に分裂した。
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