梅田芳穂とは? わかりやすく解説

梅田芳穂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/17 18:12 UTC 版)

うめだ よしほ

梅田 芳穂
生誕 (1949-09-16) 1949年9月16日
千葉県茂原市
死没 (2012-05-04) 2012年5月4日(62歳没)
マゾフシェ県ワルシャワ
墓地 ポボンスキ軍用墓地ポーランド語版[1]
国籍 日本
出身校 ワルシャワ大学
団体 連帯
影響を与えたもの ポーランド民主化運動
日本とポーランドの経済交流
配偶者 アグニェシュカ・ジュワフスカ・梅田ポーランド語版
受賞 ポーランド文化功労章(2004)
カヴァレルスキ十字勲章(2006)
テンプレートを表示
梅田芳穂の墓

梅田 芳穂(うめだ よしほ、男性、1949年9月16日 - 2012年5月4日)は、日本社会運動家ポーランド民主化に貢献した。

生涯

生い立ち

千葉県長生郡鶴枝村 (現:茂原市) に生まれる。実父は僧侶で後に関西学院大学教授となった梅田良忠、実母は角川ノンフィクション賞受賞作家の樋口久代。

ポーランド渡航

1963年に東欧学者であった父の遺言により、単身ポーランドに渡り、父の友人で考古学者・野党活動家のコンラッド・ヤヂヂェフポーランド語版教授に家で下宿する[2]。のち母親がポーランド学者の工藤幸雄と再婚し、ワルシャワに住むようになったので、その後は母親と共に生活。[要出典]

民主化運動への参加

1968年にワルシャワ大学に入学、三月事件ポーランド語版後に民主化活動組織に加わる[2][3]

ワルシャワ大学卒業後、日綿実業ワルシャワ事務所に入社。その後、本格的にポーランド民主化運動に携わり[3]日綿を退職する。

連帯の立ち上げと国外追放

連帯」に参加。1981年に国外追放処分でパリに移る。同年ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に特別謁見を許され、後の教皇のポーランド祖国訪問を導く。

1989年、永住権復活。民主的全国選挙の選挙参謀となり勝利した。

民主化後

1990年、有限会社「YOHO」創業。2001年ポーランド文化功労章、2006年ポーランド十字勲章受章[4]

2012年5月4日にワルシャワの病院で死去、62歳[5]

逸話

6ヶ国語を話す国際人である。[要出典]

脚注

  1. ^ Wyszukiwarka cmentarna --- Warszawskie cmentarze”. 2021年10月17日閲覧。
  2. ^ a b Yoshiho Umeda -jp – YOHO Ltd.”. 2021年10月17日閲覧。
  3. ^ a b NHK「ここから自由の風が ポーランド民主化から20年」2009.8.29.放送
  4. ^ „Spotkanie po latach” - uroczystości z okazji 30-lecia KOR w Pałacu Prezydenckim
  5. ^ 訃報:梅田芳穂さん62歳=元ポーランド連帯国際局次長 毎日新聞 2012年5月10日閲覧

外部サイト





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「梅田芳穂」の関連用語

梅田芳穂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



梅田芳穂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの梅田芳穂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS