共産主義に対する抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:33 UTC 版)
「ステファン・ヴィシンスキー」の記事における「共産主義に対する抵抗」の解説
1945年に第二次世界大戦が終息したが、ソ連の指図を受ける共産党政府がポーランドに入ることになり、ポーランドの状況はまた悪化の一途を辿り始めた。ポーランドのカトリック教会は、イギリスのロンドンにあったポーランド亡命政府が早く帰国してヨシフ・スターリンの傀儡政府を追い出すことを願っていた。そして、カトリック教会は反共産主義者などに対する支援を惜しまなかった。当時の重要な問題は、共産党政府が教会財産を没収して教会を政治的に弾圧するということであった。1950年、ヴィシンスキー大司教は共産党政府と秘密条約を結ぶことに決めた。そして同年2月14日、ポーランドカトリック司教団と共産党政府との間に条約が締結され、この条約によりポーランド内での教会の政治的紛争を解決した。共産党政府は教会財産に対して触れない代わりに、教会は政治問題から手を切った。そして国公立学校内で宗教教育は出来なくなり、さらに司教を選定する時は、教会で提示した3人の候補の中から政府関係者が選択して推薦することになった。後に最初のポーランド人教皇(ヨハネ・パウロ2世)となるカロル・ヴィオティワは、やはりこのような方式により司教に任命された。 しかし、1953年からまた再び迫害の波がポーランドをさらい始めた。司教達が共産党政府の抵抗を支持すると、すぐにこれに対する報復で聖職者が大量に強制連行されたり監禁されたが、ヴィシンスキーも例外ではなかった。同年9月25日に拘束され、数ヶ所を移動した後に1955年からコマンツァ修道院に移されて軟禁された。ヴィシンスキーは1956年10月26日に解放された。
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